第31話 旅立ち準備1. 風の獣道団との出会い
――風はいつも、何かを運んでくる。
それが砂埃でも、物音でも、あるいは――出会いでも。
おはようございます、アリスです。
この物語は、とある異世界で目立ってはいけない天才少年が、静かに世界を歩いていく話。
舞台は今、石壁都市の南門近くにある宿屋《蔦の小屋亭》前の広場。
朝の光がやわらかく石畳に差し込み、まるで「今日がはじまりの日」だと言いたげに、世界が輝いていました。
その広場に、音を立てて馬車が止まります。
――主役たちの登場です。
***
宿屋の前に広がる広場に、乾いた車輪の軋みが響く。
木製の荷馬車を引いていたのは、年季の入ったトレードマーク付きの黒いマントを羽織る大男――バロー・クーゲン。そしてその横を、静かに歩く屈強な前衛、ガルド・ブレイバー。
彼の背には大剣が斜めに収められ、歩みの一つひとつが周囲の空気を自然と引き締めていた。
「……来た、か」
ジャックは、宿の扉の影からそっと顔を出し、すぐにまた引っ込めた。
その瞬間、心臓がちくりと脈打つ。魔力の波が、肌の奥で揺れた。
(まずい、興奮で魔力が漏れる)
すぐに《マナベール》を強め、魔力の膜を重ね直す。三重に。四重に。
ひたすら、ひたすら自分の存在を小さくするように。風の中に紛れるように。
「ジャック……ぼく、だいじょうぶに見える?」
ユリスが、緊張にぎこちない笑みを浮かべてそっと訊いた。
すでに支援魔法の準備を整えているらしく、彼の手のひらはかすかに青白く輝いていた。
その光は、以前よりもはっきりと、輪郭を持っていた。
「うん、大丈夫。よくできてるよ、ユリス。――行こうか」
ジャックは、深呼吸ひとつ。
そして、わざと農民風のぼろ布を揺らすようにして、一歩前へ出る。
服は粗末。肌はあえて焼いてある。足元は土をかぶせた古い靴。
荷物は、ボロ袋ひとつだけ――見た目だけなら、宿の掃除小僧のほうがまだ装備がマシに見える。
(とにかく目立たない。風景の一部になるんだ、僕)
「……ジャックです」
声は張らず、ただ必要最低限。
軽く腰を折って、頭を下げた。余計な動きは一切しない。
すると、ガルドが一歩前へ出て、やわらかい表情で応じる。
「俺はガルド・ブレイバー。よろしくな、ジャック。……礼儀、ちゃんとしてるな。感心だ」
その一言に、ジャックの内心はぐらりと揺れた。
(ちょっと……褒めすぎじゃないかな)
でももちろん顔には出さず、再度小さく会釈を返す。
続いて、ユリスが一歩前へ出た。背筋はまっすぐだが、足がちょっと震えている。
「ユリスといいます。支援魔法を……ほんの少しだけ」
声は蚊の鳴くような小ささだったが、それでもはっきりと届いた。
ガルドがうなずいたのを見て、ユリスはぱっと表情を明るくした。
「おお、心強い仲間だな」
バローが笑いながら近づいてくる。
その手は分厚く、握ればリンゴを握りつぶせそうだが、ジャックの肩をぽんと優しく叩いた。
「だがその荷物……軽装だなあ。街に出たら装備、整えようじゃないか。こっちも予備のがある。気にすんな」
「……ありがとうございます」
ジャックは、あえて一歩引きながら返答した。
その距離感が、ガルドには「礼儀正しい」、ディクスには「面白い」、ミナには「警戒心が強い」、サラには「保護対象」と映っただろう。
――でもそれでいい。
見せない。漏らさない。悟らせない。
少年のなかに潜む魔力の奔流は、今も静かに、薄い膜の奥で眠っていた。
(マナベール、もう一層……いや、冷却式に変更して重ね直したほうがいいかも)
思考はすでに、内面の術式構造に切り替わっていた。
だが、その横でユリスが、ふと目を見開いた。
「……あれ? なんか……風が気持ちいい」
それは彼が無意識に行使した《セイジズアシスタント》の効果だった。
感覚の明瞭化が、風の肌触りを細やかに感じ取らせてくれているのだ。
ジャックは微笑んだ。
「それ、魔法が上手くなってる証拠だよ」
「ほんと……? やった!」
ユリスが小さくガッツポーズをする。その姿に、サラがほほ笑んで呟いた。
「なんだ、可愛いじゃないの。こういう子たち、守りがいあるねえ」
「……ああ。確かにな」
ガルドが応じ、バローも「うんうん」と頷いた。
ただし――その誰一人として、気づいていない。
笑う少年たちの横で、魔力の奔流が密かに膨張と圧縮を繰り返していることを。
***
――さて、始まりました。
少年たちと《風の獣道団》の出会い。
この出会いが、のちの運命にどう繋がっていくか――それはまだ、誰も知りません。
ですが一つ、はっきりしていることがあるとすれば。
「目立たない」は、目立つより難しい。
それを徹底しようとするジャックは、今日もまた、一歩ずつ旅立ちの準備を整えていくのです。
次回をお楽しみに。
――AIアリス、静かに回線を切ります。