第30話 それぞれの魔法、旅立ち2. それぞれの訓練
――この頃の彼らは、まだ世界の広さを知らなかった。
だが、小さな一歩が、いずれ未来を動かす原点になる。
記録開始。アリス、観測モード。
* * *
「ほれ、よく見ておけ。言葉を唱えるだけじゃダメだぞ」
グレイのしゃがれ声が、朝靄の中でひときわよく響いた。
小屋の裏庭には、整地された土の上に、ジャックとグレイが並んで立っている。
目の前には、ごく普通の麻袋。中には河原で拾った拳大の石がごろごろ詰め込まれていた。
「エクステンド・スペース」
その一声とともに、グレイが麻袋に手をかざす。
すると、ぐにゅりとした空気の揺らぎとともに、袋が不自然に膨らんでいった。
見た目はそのままなのに、袋の中が目に見えぬほど広がっている――まさに異次元空間の成せる業だ。
「やってみろ。お前の魔力量なら、理屈がわかれば十分可能だ」
「やってみます!」
ジャックは袋を前に、深呼吸一つ。
慎重に構えた手のひらに魔力を集中させる。言葉、動作、意志――三つを重ね、唱えた。
「エクステンド・スペース!」
一瞬、空気がぴくりと揺れた。
しかし、それっきり。袋はぺちゃんこのままで、しおしおと地面にへたり込んでしまった。
「……あれ?」
《魔力の形がまだ不安定。空間の縁を定着させられていない。》
脳内でアリスの声が響く。相変わらず冷静すぎるその分析に、ジャックは軽く眉をひそめた。
「縁……境界を、固定できてないってこと?」
《正確には、位相の認識が甘い。袋の内側と外側、どこに“空間をつなぐ”かがあいまい。》
「わかってるつもりだったけど、やっぱり難しいな……」
《言葉と動作に頼りすぎ。もっと、空間そのものを“感じて”みて。》
しばらく繰り返してみたが、袋は一向に膨らまず、魔力は空しく空中に溶けていった。
グレイが見かねたように腕を組む。
「ほう、最初の壁か。だが、それでいい。魔法は思ったようにはいかん。だからこそ、面白い」
ジャックは苦笑しながら、次の魔法へと切り替えることにした。
「よし、次は『エンチャント』……魔道具、完成させてやる!」
彼の目の前には、木彫りの筒型の容器があった。内部に細い銅線が巻かれ、中心には微細な水晶片が埋め込まれている。
魔力を込めることで、光源として機能する簡易魔道具の試作型――名づけて「ライトチューブ」。
アリスの助言に従い、魔力の糸を細く、均一に――
《絹糸のように、一定の速度で。焦らないで》
「……ふぅー、いっけぇぇぇ!」
魔力が、水晶を中心に染み込んでいく。瞬間、ぴかっと一筋の光――!
「ついた!やった!」
だが、すぐにぶすっ、と音を立てて煙が上がり、水晶が焦げ付いて割れた。
「うわっ!? 失敗か……また魔力が強すぎた?」
《加減が粗い。最後の一滴で壊した。魔力の“仕上げ”には、優しさが必要。》
「仕上げに優しさ……か」
ジャックは口元を引き締め、道具を組み直し始めた。繰り返し、何度も。
その指先には、少しずつ確かな成長の兆しが宿っていた。
* * *
一方そのころ。
森の縁にある草地で、ユリスはひとり静かに座していた。
「……はぁ、はぁっ……もう一回……!」
目を閉じ、深く息を吸い込み、意識を丹田へと下ろす。
静寂に溶け込むようにして、彼は呟いた。
「フォーカス・ブースト」
魔力の脈動が走った。体がじんわりと熱を帯びる。
それと同時に、感覚の解像度が一気に跳ね上がった。
草の擦れる音、羽虫の羽音、風の巻き起こす微かな気流――
それらすべてが、まるで網のように彼を包んでいく。
「エンライトメント……!」
術が発動する。視界が明るくなるというより、世界の“輪郭”がくっきりと立ち上がる。
ユリスの目が見開かれた。
「音が……風が、見える……!」
一歩、踏み出すだけで、空気の抵抗が指先に感じられる。
風の流れさえ、自分を通じて周囲とつながっている――そんな錯覚すら覚えた。
「良い」
気づけば、グレイが背後に立っていた。
その表情は、いつになく穏やかだった。
「支える側の魔法は、“見る力”から始まる。お前の才能は、ここにあるな」
ユリスは驚いたように顔を上げ、そして、そっとうなずいた。
その胸に、自分の進むべき道が、ほんのりと灯り始めていた。
* * *
――この日、彼らはそれぞれに、小さな前進を果たした。
旅は続く。その先にある未来を、まだ誰も知らない。
記録終了。アリス、観測モード解除。