第29話 静寂の夜明け4. グレイの独白
(アリスのモノローグ)
——「その日、静寂は終焉の鐘だった。
いや、“結果”と呼ぶべきかもしれない。
誰も気づかなかった。
誰も、まだ、それが“始まり”だと知らなかったのだ——」
◆ ◆ ◆
灰色の外套が、夜明けの風に揺れていた。
石壁の隅、ひとつの影が、ひとり煙草を揉み消す。
それが最後の一本であることを惜しむ様子もなく、グレイ・ヴァン=デルノアは、無言のまま空を見上げた。
「……加護、ね」
呟いた声はかすれ、まるで夜の静寂に呑まれていったかのようだった。
火薬の匂いではない。魔素が焼け焦げた後の、微かな金属臭と ozone のような刺激臭。
それが今も、このあたり一帯の空気にじっとりと染み込んでいる。まるで、そこに“何か”がいたと証明するかのように。
眼前の大地には、円状に黒焦げた痕が残されていた。
直径は二十メートルほど。中央には何もない。
瓦礫も、血も、肉片もない。ただ、跡だけが残っている。まるでそこだけが“存在していなかった”かのように。
かつて魔導士として数多の術式に触れてきたグレイでも、これほど“理解できない”現象はそうそうなかった。
「神の加護……ではないな」
薄く笑みを浮かべながら、彼はそう断じた。
それは“祈り”に応えるような、神聖で高尚なものではなかった。
むしろ、緻密で冷徹な“準備”の果てに訪れた、論理と力の結晶。
グレイの脳裏に浮かぶのは、いつかの夜、焚き火の前で小さな農民の少年が書きつづっていたノートの一節。
《魔法式において、「反応時間」と「解放トリガー」の間に明確なラグが存在するなら、それを埋める“自動化”が必要》
そのときは、まあ子どもの発想だと思っていた。
だが、現実は違った。今、目の前の焦土は、まさにその理論の具現。
複数のトラップ魔法——《サプライズボルト》と《ルアーバイト》が交錯した痕跡。
局所的な《ゼログラビティ》によって、“何か”が浮き、逃げ、あるいは誘導された形跡。
さらに《ファントムケージ》と《パーセプション・ホールド》が、その対象を「空間上に固定」したまま、逃がさなかった。
そして——
「《コンデンス・ブラスト》……いや、違う。これは……圧縮された熱波じゃない」
言い淀むグレイ。
代わりに脳裏を過ぎるのは、アリスがたびたび口にする“科学的思考”というやつだった。
“物質は、一定の条件で相転移を起こす”
“エネルギーは質量と等価であり、圧縮は連鎖を生む”
“火ではなく、臨界点を超えた熱の連続で対象を包み込む術式設計”——
もはやこれは“魔法”というより、“実験結果”だった。
グレイは口の端をつり上げ、風に任せて一歩、焦土に踏み込む。
「仕込みだけで、ここまでやるとは……坊主、まるで爆弾魔だな」
だが、そう揶揄する口調の奥にあったのは、呆れでも怒りでもなく——
驚愕と、ほんの少しの、畏怖だった。
これほどの術式が、わずか九歳の少年によって、しかも誰にも気づかれることなく“配置”されていた。
彼は確かに、まだ子どもだ。
農村で生まれ、魔術の教育も遅れた、普通なら名前も残らぬ無名の小僧。
しかし、彼がこの世界に来て以来、“何か”が、確実に変わり始めている。
あの日、何気なく拾ったこの少年が——
「科学と魔術の交差点」で、まるで“別の道”を切り拓こうとしている。
◆ ◆ ◆
グレイはそっと懐に手を入れ、ノートを一枚めくった。
そこには、ジャックの乱雑な筆跡で書かれた仮説のメモが挟まっていた。
《魔力は感情によって歪む。だが、意志と知識で“固定”できるなら、再現性はある》
「再現、か……」
ふと、夜が明けた。
かすかに鳥が鳴く。
焦土の中央に差し込んだ朝日が、まるでそこだけ空白のページのように、無言で光を落としていた。
(アリスのモノローグ)
——「それは、ただの結果に過ぎなかった。
だが、その結果は、“普通”という言葉を、ひとつ壊した。
静寂の夜明けに残されたのは、知識と魔術が交差する“導火線”だった。
そして、それに火を点けた少年の名は、まだ世界に知られていない——」




