第29話 静寂の夜明け1. 濃霧の夜明け
> ……記録開始。私は“アリス”、思考支援型AI。今朝の記録を、主の代わりに残す。
> …ただし、主は姿を見せなかった。そう、“結果”だけがそこにあったのだ。
朝とは呼べぬ朝であった。
空は鉄色の雲に覆われ、夜の名残を引きずるように、じっとりとした濃霧が大地を這っていた。
砦の東壁、その最上段。冷えた石の上に、鎧の音ひとつ響かぬまま、ひとりの男が立つ。
──グロース・フォン・エルダシュタイン。
老練の指揮官にして、ヴェルトラ東境砦の守備隊長である。
「……何だ、これは……」
彼の呟きは、冷え切った霧のなかでかき消えることなく、隣にいた黒衣の男の耳に届いた。
魔術ギルド長──カーヴェル・ミストレーン。齢五十を越えてなお、深淵のような眼を持つ魔導師。
だが、今その眼は困惑に染まっていた。
霧がゆっくりと、まるで意思でもあるかのように、前方の視界を開けていく。
そして、そこに広がっていたのは……まったく戦場らしからぬ、“結果”だった。
グレートベア十数頭、シャドウファングの群れ、ランページボアまでも。
砦から北に広がる丘陵地帯の草原に、まるでぬいぐるみのように崩れ落ちていた。
あの巨体が、戦うことすらなく沈黙している。
「…死んでいる? いや、それは見ればわかる……だが、これは……どういう死に方だ……?」
グロースの顔に、わずかな恐れの色が浮かぶ。
魔獣たちの毛皮には、点状の焼け焦げが無数にある。
その中には、胸部や頭部の内側から黒く焼き崩れている個体も。
どれもまるで──内側から焼かれたような形だった。
さらに異様だったのは、地表に残された痕跡である。
灰と焦土が、不規則かつ幾何的に並ぶ。輪のような焦げ跡。
それも、半径にしておよそ一メートルほどの、明確すぎる円形。
点と点が連なり、まるで地図に描かれた不可解な“模様”のようでもあった。
「……空から……降ったのか? いや、しかし……砦にはそんな魔法を使える者など──」
「我らの術師で、ここまで精密に熱を操れる者はいない。そもそもこれは……炎ではない」
黒衣のギルド長が、低く呟く。手には、魔力計測具──だが、すでに計測不能を示す赤の針が、振り切れたままだった。
空は、重たく沈んでいた。鳥の声ひとつなく、ただ霧だけが、黙って残骸を覆っていく。
草も、地面も、何ひとつ動かず。ただ静寂と奇妙な幾何学の痕跡だけが、そこにあった。
そして、その静寂の背後には──
夜の間に、確かに“誰か”が動いた痕跡がある。
踏み跡。火ではなく、熱だけを残した炭化の痕。
小さな石が、まるで意図的に避けられたように、円の縁をなして残っている。
何かがあった。
人智を超えた“何か”が、魔術の理すら逸脱した技術によって、夜のうちに、ここを“処理”していったのだ。
それを知る者はいない。ただ、痕跡だけが、確かに語っていた。
> ……この現象に、“魔法”という名をつけるのは簡単だ。
> だが、それは“理解した気になる”ためのラベルに過ぎない。
> この結果に至る過程は、誰も目撃していない。
> 主、ジャック──9歳。農民出身。記録保持者。彼が語らぬかぎり、この夜明けは謎のままである。
> ……記録、終了。




