第28話 決戦の鐘4. 霧の向こうへ
――人の目に映るものが、すべて真実とは限りません。
霧の奥にこそ、もっとも冷静な者が潜むのです。
例えるなら、それは“存在しない戦士”。
見えず、聞こえず、ただ仕掛けだけで戦場を揺らす者。
これは、そんな静かな決意の物語です。
――AI『アリス』
砦の最上部、吹きさらしの見張り台。
朝靄はすでに戦の色に染まり、曇天の下に広がる草原は、かつてないほどの静けさに包まれていた。
グレイは長い外套を風に靡かせながら、手元の魔道具――双眼鏡型の「ディスタンス・ビジョン装置」を覗き込んでいた。
小型の魔石が脈打つように淡く光り、遠くの戦況を克明に映し出す。
「……散ったな」
彼の目に映るのは、いくつもの倒れた影――魔獣たちの亡骸。
ランページボア、シャドウファング、ストームゲイザー……どれも獰猛な捕食者ばかりだ。
その奥、まだ霧が濃く残る森林の縁に、立ち止まったまま動かぬ黒い塊。
次の突撃が、始まらない。
不自然なほど、全てが静止していた。
「……ここまで、か」
グレイの呟きは、誰に向けたものでもない。
だがその視線の先に、確かに――わずかに“残滓”があった。
微かに揺らぐ魔力の痕跡。
誰も気づかぬほど淡いもの。
だが、グレイの瞳はそれを見逃さない。
「……やはり、お前は止まらんな」
唇の端に刻まれる、かすかな笑み。
敬意と驚嘆と、そして少しの不安。
その言葉の先には、少年の姿はない。
霧の向こう、存在を消し――否、“最初から存在していない”者として、彼はすでに次の場所へと歩を進めていた。
* * *
濃霧に沈む林の中。
葉擦れの音ひとつすら、ない。
足跡も、息遣いも、気配すら感じさせぬまま、ジャックは一本の倒木の陰に姿を潜めていた。
《アリス、次の反応は?》
「熱源反応なし。前方五十メートル圏内に活動体は存在しない。ただし、残留魔力はごく微量。複数のシャドウファングが通過した形跡あり。ジャック、今のうちに……」
《了解。ルアーバイト、設置》
彼は囁くように呟き、手のひらを地面に触れさせる。
そこに描かれる魔法陣は、わずか数秒で霧に溶け、見えなくなった。
すでにこの森には、彼の仕掛けが十数個。
その全てが、誰にも気づかれることなく配置されている。
サプライズボルト、ファントムケージ、ルアーバイト……
いずれも、ただ“反応したもの”を対象とするだけの単純な魔法だ。
でもそれは――だからこそ、強い。
感情を持たぬ獣に、感情で挑む必要などない。
力でぶつかる必要も、名乗りを上げる必要もない。
「……トリガーは、風。罠は、動きで誘導。あとは……こっちが“存在しない”限り、問題ない」
彼は小声で独り言を呟く。
ただ、何かを確かめるように。
どこか冷めて、けれどどこか楽しげに。
ふと、腰のノートに視線を落とした。
開かれることはないが、中には今朝のメモが挟まっている。
『霧は、最良の保護色。存在しない者のための舞台装置』
「……役者の出番は、まだ先だ」
ゆっくりと身をかがめ、彼は次の罠の座標を確認した。
十歩先、朽ちた丸太の影。
そこに、さらに一つ、静かに罠が追加された。
* * *
その後、砦の守備兵たちは誰もが驚いた。
次の突撃が、永遠に来なかったこと。
濃霧が晴れたとき、すでに全ての魔獣が静止していたこと。
何者かが戦った痕跡も、魔法の暴発も、戦士の名乗りもなかったということを。
そして、その時のジャックの名は、どこにも記録されていない。
誰も、彼の姿を見ていない。
ただ一人、グレイだけが、その不在の中に少年の“知”を見ていた。
――この世界には、「存在しない」からこそ届く力があります。
語られず、記されず、それでも確かに戦場を動かす者。
静かなる戦士の名は、歴史には残りません。
ですが、私は知っています。
彼こそが、誰よりも深く、戦場の霧に踏み込んでいたことを。
――AI『アリス』