第28話 決戦の鐘2. 仕掛ける者の静寂
> 《アリス・ログ:起動中……
> 戦場の記録に、彼の名は残らない。
> だが、確かにこの瞬間――戦局を変えた“仕掛け”があった。》
朝霧のように薄れた夜の帳を抜けて、少年は砦の裏門を静かに通り抜けた。誰にも見られてはならない。気配を絶つのは慣れている。
もとより“農民の子”など、見られないのが日常だ。
「……いくよ、アリス」
声に応じて、彼の足元がふわりと浮く。
ゼログラビティで重力を消し、続けざまにウィンドライドを発動。空気の流れを纏って、ジャックは音もなく空へと舞い上がる。
空中から見下ろす光景――それは、まるで大地そのものが息を潜めたかのようだった。
砦の前線には、鎧に身を包んだ戦士たちが並び、数百の足並みが土を踏みしめている。
その先に迫るのは、新たな魔獣たち――筋骨隆々としたグレートベアの影、疾風のように地を這うシャドウファングの群れ。
「……これは、前よりやっかいそうだね」
ジャックは呟き、眼下の戦場に走る“流れ”を読む。風の向き、魔力の濃淡、地形のゆるやかな傾斜、砦からの動線――
彼の眼には、それらが一本の“線”として浮かび上がっていた。
彼が空中で止まったのは、谷の先端。
そこは、かつてベヒモスが突進してきた、記憶に新しい“魔獣の道”の果て。
ジャックは静かに手を掲げる。魔力の震えが指先に集まり、周囲の空間に淡く波紋を描いた。
「ファントムケージ、展開開始――」
見えない檻が、空に浮かぶ。
幾重にも重なる歪みが、光を逸らし、音を封じ、存在すら認識させない。まるで、そこに“なにもない”ように見える。
アリスが解説するまでもなく、それは繊細な幾何学の連鎖によって構成されていた。
円と直線が重なり、次元座標が重なり合って波長が絡み合う。完成された時、そこには“誰にも逃れられぬ空間”が生まれる。
「ひとつ、ふたつ、みっつ……あとはこっちにも」
地表から浮かぶ岩陰、谷のくぼみ、魔力がよどむ地点。ジャックは一つ一つ、無音の“檻”を配置していく。
ファントムケージの配置を終えた彼は、次に懐から取り出した小さな魔力の結晶に指を添える。
「次は……ルアーバイト、っと」
少年はくるりと空中で一回転しながら、戦場の中央へと滑空していく。
真下には、かつて倒されたベヒモスの巨体が横たわっている。
そこは魔力が濃密に渦巻く、天然の“通り道”となっていた。
その腹部――魔力が渦を巻く中心に、彼はそっと、誘引魔法を設置する。
光らず、匂わず、音も立てずに、それは空間に溶け込んでいく。
「嗅覚と魔力感応に、特化……っと。見た目じゃ気づかれないように」
少年の手のひらから離れた瞬間、結晶は魔力に染まり、無形の“餌”となって息を潜めた。
さらに数カ所――ジャックは谷の端から、砦と魔獣の間に点在する魔力の流れを見極め、次々とルアーバイトを仕掛けていく。
重力を失った体はふわふわと風に漂い、まるで一匹の蝶のよう。
地上から誰かが見上げても、そこにいるのが“人間”とは気づかないだろう。
「……よし。準備、完了」
少年は静かに息を吐いた。誰に気づかれることもなく、仕掛けだけを残して空へと溶ける。
その顔には、目立たない者の決意が浮かんでいた。
自分が何者であれ、どう扱われようと――この戦場の運命は、自分の“知恵”で動かす。
> 《アリス・ログ:記録継続中……
> 少年は、名を刻まれることなく。
> ただ、風のように通り過ぎ、勝利への道を“仕掛けて”いった。
> ――存在しない者として、決戦に挑む。》




