第27話 本命の影3. 咆哮と震撼
### 第27話 本命の影
#### 3. 咆哮と震撼
> ――あの瞬間を、「偶然」だったと言い切れる者は少ない。
> けれど、理由を問えば、誰も答えられなかった。
> だって、それは世界の裏側で、誰にも知られずに仕掛けられた一手だったのだから。
> ……私以外にはね。
> 《観測:記録開始。アリスログ27-3》
霧が――裂けた。
灰色に満ちていた空間が、一瞬だけ真昼のように晴れた。
「――な、なんだ……?」
最前線にいたギルド兵の誰かが、声を漏らしたその時。
霧の彼方に、それはいた。
全長十メートルを超える巨体が三十。
ひとつの群れとしては異常な規模のベヒモスが、霧の中から現れたのだ。
その姿を最初に捉えた兵士は、硬直したまま息を呑んだ。
重厚な筋肉。鈍く光る瞳。震える地面。
一体だけでも脅威となる存在が、三十。
ベヒモスの最前列に立っていた個体が、口を大きく開けた。
咆哮。
それは風ではなかった。
音でもなかった。
――圧だった。
「が……あぁああぁああああッ!!」
天地が揺れた。空気が弾けた。空が震え、耳が割れそうな怒声が大気を突き刺した。
それに呼応するように、残り二十九体の巨獣も次々に咆哮を重ねる。
ゴアアアアアアアアアッ!!
空間が、悲鳴を上げた。
山が軋み、地面が跳ね、膝をついた兵士の盾が砕けた。
石壁都市ヴェルトラの東門前に築かれた防衛線は、その瞬間、恐怖と覚悟の臨界に達していた。
誰もが――次の瞬間に、自分が踏み潰される未来を想像した。
だが、その“次の瞬間”は、思っていたよりも――静かだった。
ぐらり、と。
その最前列にいたベヒモスが、首を垂れた。
「……ん?」
誰かがつぶやいたのと、ほぼ同時だった。
ベヒモスの巨体が、くず、お、と、膝を折った。
ドン。
鈍い音を立てて、巨体が地面に崩れ落ちた。
ドン。
ドン。
ドドンッ――!
「う、そ……だろ……?」
口々に呟きが漏れる。
一体、また一体。
次々と、まるで合図でもあるかのように、ベヒモスたちが崩れ落ちていく。
走り出すでもなく、吠えるでもなく。
暴れるでもなく、威圧するでもなく。
ただ、順番に、規則性もなく。
巨大な獣が、まるで力を奪われたかのように、崩れ、倒れ、動かなくなる。
そして――数十秒後。
三十の咆哮が、三十の沈黙へと変わったとき。
戦場には、巨大な亡骸だけが残されていた。
「な、何が……?」
誰かが口を開いたが、答える者はいない。
「……これは……どういうことだ……?」
ギルド兵士たちも、街の騎士も、弓兵も、何が起きたのかを理解できずにいた。
砦の指揮官でさえ、叫ぶことも、命令を飛ばすこともできなかった。
だが。
「があっ!」
ベヒモスの後ろに従っていたグレートベアの一群が、突如として狂ったように走り出した。
ランページボアが牙を突き立て、森林コボルトが吠える。
残された魔獣たちが、先導を失ったまま暴れ出したのだ。
混沌。
咆哮。
地響き。
破壊と錯乱。
*
霧のやや後方、岩陰の隙間。
まだ幼い少年の姿があった。
名をジャックという。農家の子にして、魔法使いの弟子。
「うん……うまくいった、みたいだね」
まるで、昼食後にひと息ついたかのような穏やかな声だった。
彼はこの場において、ただの子どもに見えた。
感情の高まりによって引火する、小さな小さな仕掛け。
誰にも気づかれず、咆哮とともに作動し、頭蓋の内側でベヒモスたちを“止めた”。
それは――《サイレント・クライシス》。
血が頭に昇った瞬間、命を絶つ静かな災厄。
誰にも知られないまま、確実に効いていた。
*
> ――その子は、ただ静かに笑っただけだった。
> 魔法は派手でなくてもいい。理にかなえば、十分すぎるほど強い。
> そうやって、ジャックは世界の理を組み替えていく。
> ……気づいた者たちは、これからも恐れるだろうね。
> 《記録終了。アリスログ27-3》




