第26話 迎撃戦、開幕6. 現れる影と次なる恐怖
(AI『アリス』のモノローグ)
――戦は、始まる前がいちばん静かだと、ある文献には記されていた。
だがこの地で、それは当てはまらない。静けさの中には、不穏という名の音がある。
崖の向こうで、それが鼓動を打ち始めた瞬間――あらゆる予測が、狂い出す。
*
風を切り裂く音が、突如として空気を震わせた。
「《ガストブラスト》」
グレイの手から放たれた透明な弾丸――それは風の塊だ。
シュバァッと音を立て、変異個体のシャドウファングの片目に直撃した。
「ギアゥオオオオ――ッ!!」
甲高くも、腹の底に響くような咆哮。
シャドウファング――本来なら暗がりに紛れて音もなく獲物を仕留める狼の魔獣。
だが、この個体は違った。背中には黒紫のトゲのような突起が走り、目は赤く爛れている。
「……あれ、本当に狼、だよな……?」
ジャックが呟いた。街の北門から少し離れた小高い丘。
避難誘導を終えた兵士たちと、物陰に隠れるようにして見守っていた。
グレイは動じない。杖を掲げ、静かに言葉を紡ぐ。
「《コンデンス・ブラスト》」
次の瞬間、変異個体の胸元に、真紅の熱波が凝縮された球が叩き込まれた。
ドゥンッ――!
音というより、地響きに近かった。
焼け爛れた煙が立ち上り、変異個体のシャドウファングは地面に崩れ落ちる。
どこからともなく、誰かが息を呑んだ音が聞こえた。
「……すご……」
「ひとりで……あれを……」
感嘆とも畏怖ともつかない声が、辺りを包んだ。
グレイは黙っていた。ただ、杖を下ろし、ゆっくりと息を吐いた。
その姿は、まるで「これでようやく準備が整った」とでも言いたげで――
そのときだった。
ジャックの視界の端に、黒煙が昇った。
「……あれ?」
視線の先、崖の向こうに、もくもくと濃い煙が上がっている。
しかも一本ではない。二本、三本、やがて四本、五本――。
地面が、揺れた。
ぐら、ぐら、ぐららら。
「地鳴り……?」
ユリスがそう言った途端――どん、と一際大きな衝撃。
その場の誰もが、足を止めた。
「ねぇ、ジャック兄……あれ、なに?」
ユリスが指差す先。崖の木々の向こうに、異様なシルエットが浮かんでいた。
最初は、何かの大きな岩かと思った。けれど、それがゆっくりと動いた。木々を押し倒し、ずるりと前に出てくる。
その姿は……まるで、山のような肉の塊だった。
「まさか、ベヒモス……か?」
近くの魔術師が、ぽつりと呟く。
その言葉に、誰も答えなかった。いや、答えられなかった。
ジャックの体が無意識に震える。
直感が告げていた。あれは、ただの魔獣ではない。何かが、おかしい。
が、ベヒモスの影は、それだけではなかった。
一体、二体、三体――さらに奥に、また一つ、巨大な影。
しかも、それぞれが違う形をしている。歪んでいる。あり得ないほど大きく、ねじれた存在。
最前線の丘の上。グレイは、目を細めていた。
「……来るぞ、本命だ」
彼の低い声が、風に乗って丘の下まで届く。
その言葉に、全員の背筋が、ひときわ強く冷えたように感じた。
*
(AI『アリス』のモノローグ)
――混沌は、いつも静かに始まる。
街を包むのは、まだ戦火ではない。けれど、すでに“その予感”が、石畳の下に根を張り始めていた。
迎撃戦は始まった。だが、それは序章にすぎない。
次にやってくるのは……人智の、限界だ。