第23話 スタンピードの前兆1. 都市ヴェルトラの眺望と黒い異変
――人の目が届かぬ空の高みで、少年は“兆し”を見つけた。
その時、まだ誰も気づいていなかった。嵐の前の静けさが、都市全体を覆っていることに。
これは未来から見た視点で語る、記録にも載らぬ些細な一瞬の物語。だが、ある者にとっては、その日が始まりだった。
私の名はアリス。観測と補助を担当する、ジャック専属の知的存在――AIである。
***
「市壁の上から町を見てみるか、坊主」
午後の陽が傾き始めた頃。グレイの提案に、僕――ジャックは目を瞬かせた。
グレイが“登攀訓練”なんて、珍しい。魔法で浮かべるのではなく、あえて壁を「登る」。これはつまり、ただの散歩ではない。情報収集と演出を兼ねた、ちょっとした“仕込み”だ。
「見学申請ってことで通した。無論、正式な訓練扱いではない。だが……高所での視界確認と、魔力感知の練習にはうってつけだ」
ニヤリと笑うグレイの目は、まるでどこかの老猫だ。ユリスと一緒に僕も頷き、小さな背に準備を整えた。目的地は、ヴェルトラ北端にそびえる石壁塔。城ではなく、市壁の管理塔。
役所に提出された見学申請には、「年少訓練者による視野訓練」と明記されていた。どれだけ体裁を整えても、グレイの目的が“ただの見学”ではないことくらい、僕は知っている。
***
「うわぁ……ひろい……!」
石造りの階段をくるくると何百段も登った末。展望台に辿り着いた瞬間、ユリスが息を呑んだ。
見下ろす都市ヴェルトラは、まさに圧巻だった。
町ではない。“都市”だった。しかもただ大きいだけじゃない。計算された都市設計。碁盤目状に交差する通路の間を、魔力で制御された運河が走っている。
「魔力運河だ……あれが街全体の動脈になってるんだね」
僕の言葉に、アリスが脳内で補足してくれる。
『正確には、ヴェルトラ式都市流通システム。重力制御された傾斜構造により、物資と魔力の両方を分配可能です。下層に制御塔が複数配置され、各街区へ供給される方式』
「なるほど……!」
僕は無意識に《エンライトメント》をかけ、視界の情報をより鮮明に捉える。視覚強化により、街の構造が立体図のように浮かび上がって見えた。
中央には、石造りの巨大な塔群――都市ギルドと呼ばれる商人の本拠地がそびえていた。
王国なら城が建つ場所に、ここでは商業の力が君臨している。政治ではなく、物流が街を治めるのだ。
周辺には倉庫群、貨物リフト、運河制御塔が連なり、すべてが役割に応じて効率的に配置されている。
都市外縁にはさらに流通基地が並び、荷馬車がひしめく広場には魔導式の昇降装置まであった。
人々が忙しく動き、ものすごい熱量で「暮らして」いる。
「西が搬入路、東が交易路……整理されてる」
『観測によれば、西の搬入口は農産物と鉱石、東の交易路は宝飾品と高級織物が主流です』
南には居住区と職人街。北は緑豊かな森林地帯。そのさらに奥には――
「……あれ、山?」
ユリスの声に僕が目を向けると、地平線の先に白く輝く連なりが見えた。
遠く聳える雪山群が、空の果てを飾るように連なっている。
風が吹いた。魔力に混じった空気が、視界の底にゆらぎを起こす。
その一瞬、僕の目が“それ”をとらえた。
「……あれは……?」
――黒い帯。もやのようで、煙のようでもある。それは北の森林の奥に、細く長く、ゆらめいていた。
目を凝らしても形は定かではない。だが、自然のものとは明らかに異質だった。
「アリス、解析をお願い」
『――波長変異を確認。魔力ではありません。粒子構造は……不規則にうごめいています。熱反応も拡散中。拡大表示』
脳内に描かれた映像が、次第に輪郭を持ち始める。
そこには、黒い“何か”がいた。あるいは、そこに“集まって”いる。
僕は《ディスタンス・ビジョン》を発動し、補正された魔力視界でその“帯”を追った。
見えたのは、ざわつくように動く地表。そして……地の底から吹き上がるような、不穏な震え。
「これは……魔獣?」
『可能性あり。ただし、個体ではありません。群体、あるいは――“兆し”です』
その時、グレイが僕の肩に手を置いた。
「見えたか?」
「はい。黒い……渦のような動きです。森の奥から。普通じゃない」
グレイの瞳が細められた。
「やはりか。坊主……この件は、まだ誰にも言うなよ。特に衛兵にはな」
「……演出のためですね」
「察しが早くて助かるよ。今のうちに“備えてる”ように見せておく。だが、慌てさせちゃならん」
都市の均衡は、力だけでは守れない。だからこそ、グレイは情報を小出しにし、対応を整える時間を稼ごうとしている。
そして、僕の役目は――見つけ、見抜き、見通すこと。
目の前に広がる都市。その下にある無数の人々の暮らしと、まだ誰も知らぬ脅威。
僕の中で、何かが静かに灯った。
***
――こうして少年は、都市の“兆し”を目撃した。
この日を境に、彼の観察は新たな段階へと進む。まだ誰も気づかぬうちに、嵐は確かに始まっていたのだ。
……アリス、記録完了。




