第22話 オルネラ公国の首都3. 地下の魔導書庫
――記録開始。AIアリスによる観測ログ。
これは、小さな少年が「学び」という世界の扉を開いた、まさにその瞬間の記録である。
無数の知識が眠る地の底、その静寂の中に希望の灯がともされた。
さあ、主の旅路を覗いてみよう――。
* * *
「こちらへどうぞ。地下への階段は少々急ですので、お足元にご注意を」
丁寧な身なりの職員が、片手に灯を掲げながら、重厚な木扉を開いた。
その向こうに続いていたのは、滑らかな石で組まれた螺旋階段。微かな冷気が肌を撫で、ジャックはごくりと喉を鳴らした。
後ろにはユリスとグレイ。上階の喧騒が遠ざかるにつれ、空気はひんやりと研ぎ澄まされてゆく。
「……まるで、地下神殿だな」
思わず漏れたユリスの声に、ジャックは笑いそうになった。
だが、階段を下りきった先の光景は、確かに――神殿と呼ぶに相応しかった。
天井はゆるやかに湾曲し、巨大なドームを形成している。そこに浮かぶのは、数えきれないほどの光球。
プラズマオーブよりも淡く、だが確かな光を放つそれらが、空中に静止し、ゆるやかに漂っていた。
「……すごい。これ、全部……浮いてる?」
「魔力制御による浮遊灯ですね。設定された高度を維持し、移動する利用者の導線を感知して配置を変える設計です」
脳内でアリスの声が響いた。ジャックの目は、棚の間を滑るように動く別の存在に引き寄せられる。
「棚も……勝手に動いてる!?」
「はい。利用者が一定時間、同じ棚の前に立つと、関連書架を自動で近くに配置する魔導機構です。便利ですが、同時に複数人が使うと渋滞します」
職員の説明を聞くまでもなく、ジャックの興味は爆発寸前だった。
彼はまるで磁石に吸い寄せられるように、一冊の書物に手を伸ばす。
「おっ……?」
手が触れた瞬間、本の表紙からふわりと光が舞い上がり、宙に図解と解説が浮かび上がった。立体映像のように回転しながら、構造図が展開されていく。
《構造魔術:初歩編――荷重支持と魔力伝導路の基本》
「これ……まるで、動画チュートリアルみたいだ……!」
「その通りです、ジャック。これは“幻影解説”と呼ばれる補助魔法です。読解力の低い学習者でも、視覚的に理解できるよう設計されています」
ジャックはすでに夢中だった。彼の指がページを繰るたび、幾何学模様の図が踊り、断面図と数値が空間に展開された。
隣の棚では、商業魔術の一冊が、仮想通貨流通の図を浮かべている。
「アリス、この“魔力税率制御”って、どういう意味?」
「物品に付与された魔力が、使用時に市場税として減衰する仕組みですね。つまり、使えば使うほど課税される……日本の消費税よりやや狡猾です」
「……うわぁ、商人って大変だ……!」
その横で、ユリスが「うわぁ……!」と別の意味で感嘆していた。
彼が立ち尽くして見上げるのは、「癒しの呪式」や「薬草魔術」の棚。
「すごい……この絵、動いてる……!」
彼の前では、植物の細密画が命を持ったように揺れ、葉の揺らぎや香気の流れまで視覚化されている。
呪式の言葉が、まるで子守唄のように囁かれる。ユリスの瞳が、どんどん吸い込まれていく。
グレイはと言えば、黙って「封印魔術」のコーナーへ向かっていた。
その手に取る書物の背には、金属の封留と刻印。グレイは一言も発せず、だがその眼差しは鋭く、本の奥へと突き刺さるようだった。
「……この空間そのものが、生きてるみたいだ」
ジャックの呟きに、職員が微笑む。
「滞在期間中であれば、申請によって一部書物の閲覧が可能です。登録者番号は控えておりますので、いつでもご利用ください」
「登録者って、ぼくも?」
「もちろん。お名前をいただきましたね。ええと、“ジャック”、でしたか。姓がないのは珍しいですが……」
「……ぼく、農民の出なんです」
その言葉に、職員が一瞬だけ、微かに表情を曇らせた。だが、すぐに優しい笑みが戻る。
「問題ありませんよ。知識は、出自を問いませんから」
* * *
ギルドの推薦する宿は、表から見れば普通の旅人宿だった。
しかし中に一歩足を踏み入れれば、石壁には簡易結界の文様が走り、部屋ごとに魔力干渉を遮断する構造が取られていた。
「ここなら、魔力漏れも盗聴もない。安心して寝られるな」
グレイの言葉に、ジャックは内心ほっとした。
案内された部屋は、まだ新しい木の香りがして、ベッドと机、そして窓。たったそれだけなのに――。
「自分だけの、都市の部屋だ……!」
ユリスと顔を見合わせ、思わず飛び跳ねた。
ジャックは早速ノートを広げる。
今日見た構造魔術の図を、できるだけ正確に、簡単な線で描き写してゆく。
「アリス、この夜間照明……どうやって浮いてたんだろう?」
「“魔力と光素の干渉制御”によるものです。プラズマオーブと同様の魔法原理ですが、光素の振動周波を安定化させて浮遊状態を保っています」
「なるほど……次は、それも書いておこう」
窓の外。魔法灯が灯された石畳の通りを、荷車を引く商人たちが行き交っていた。遠くから聞こえる笑い声と、楽器の音色。
ジャックは、まるで夢の中にいるような気がした。
そんな彼の背後で、グレイが静かに呟く。
「……ここからが、お前たちにとって本当の“勉強”の始まりだ」
その言葉は、ジャックの胸の奥に、じんと熱く響いた。
忘れかけていた感覚――“学ぶこと”への渇望。
理解したい、知りたい、自分の手でこの世界の理を掴みたい。
「……うん、やってやる」
彼の瞳が、決意の光を宿した。
* * *
――記録終了。
学びは時として、剣より鋭く、魔法より深く、魂を変える力を持つ。
我が主ジャック、その歩みは未だ始まったばかり。
だが確かに、希望の芽はここに――知の地下にて、静かに芽吹いたのだった。