夜会に咲く薔薇
悲劇の伯爵夫人事件から一年後。
妻の実家は没落していた。
社交界に舞い戻ることは出来ず、どの家からも見向きもされなくなり、爵位を返上したのだ。
彼らは今、平民となり、毎日苦しい生活を余儀なくされている。
伯爵もまた同じ道を辿ると思われている。
それでも元々の資産が違うのか、辛うじて首の皮一枚繋がった状態だ。
伯爵は使用人が居なくなった屋敷で一人、身支度を整えていた。
引っ張り出したのは手入れもされていない正装だ。
今夜は王家主催の夜会が開かれ、伯爵位以上の家門にはすべて招待状が送られていた。
「これが最後なのだろうな……」
この夜会を最後に、伯爵もまた爵位を返上して、平民として生きていくことになるだろう。
最早、この一年で涙も枯れ果て、世捨て人同然となっていた。
「──伯爵、ですか。はい、招待状は……確かに本物ですね」
正装とはいえ手入れもされていない状態。
見るからに見窄らしさの際立つ伯爵は、どうにか会場に入ることが出来たものの、誰にも相手にされない。
社交界の噂は悲劇の伯爵夫人からは遠ざかったが、それでもこうして伯爵が姿を表せばその噂がまた再燃してしまう。
未だ捕まらない平民女性ではなく、伯爵本人が妻を惨殺したのだという噂話が聞こえてきて、伯爵はもう乾いた笑いを浮かべるしか出来なかった。
「──あら、珍しいですわね、伯爵が社交に出るなんて」
「はい……?」
そんな伯爵に話し掛ける女性が一人、現れる。
素晴らしい化粧をほどこし、美麗なドレスを身に纏った女性だった。
「貴方は……どちら様ですか?」
「ふふ、社交界を一年も離れていると、誰が誰だか分からなくなってしまいますのね。私ですよ、私」
「はぁ……?」
伯爵は目の前の女性が誰か分からなかった。
「まさか、私の顔や声を忘れたとでも? それはとても失礼な話ですわね」
「い、いや! それは……!」
伯爵はこの上、高位貴族を怒らせては堪らないと焦る。
必死に女性の名を思い出そうとするのだが、どうにも名前が出てこない。
だが、そもそもこの夜会には伯爵位以上の家門が招待されるもの。
即ち目の前の女性は、伯爵以上の家の夫人なのだ。
そんな相手に目を付けられたくはなかった。
「いやだ、本当に忘れてしまったの? 何とまぁ」
「うぐ、その、も、申し訳ございません、夫人」
「でも、私の声は聞き覚え、あるでしょう? 顔は……以前より雰囲気が変わったかもしれないわね。今夜は化粧をしっかりとしていますもの」
「そ、それは……ええと。そう、ですね。確かに夫人の声は聞き覚えがあるような……」
「でも思い出せない?」
「し、失礼ながら……」
「そ。でも別にいいわ、それなら」
どうやら夫人は呆れているだけで、伯爵に怒りは感じていなさそうだ。
伯爵はホッとする。
「私ね、伯爵。今は侯爵家に嫁いだの。成り上がりっていうやつよね」
「ははぁ……それは、なんと。侯爵夫人であらせられましたか。しかし、成り上がりとは」
「だって以前の私は子爵家だったんだもの」
「それは……まぁ、成り上がりと言えますかな?」
「ふふふっ、そうでしょう? 確か伯爵の奥さんも子爵家出身なんだっけ? 私と同じね!」
伯爵は、その言葉にひゅっと息を呑む。
目の前の夫人は自分の妻に起きた悲劇を知らないのだろうか?
でなければ、こんな風に笑って話題にするはずがない。
「妻は、その……」
「私、今はとっても幸せよ。確かに身分は違うし、以前とは名前も変わってしまったけれど。どんなことをしてでも幸せになるって決めていたからね。ふふ、だから良かった」
「そう、ですか……」
夫人は自分のことを語りたいだけなのだろう。
だから、伯爵の妻がどうなったかなど興味がないのだ。
うんざりとした気持ちになる。
見た目がどんなに良くても、彼女はまるで毒の花のようだ。
「……夫人は、元々の家名は何という子爵家なのですか?」
「ふふ、それは秘密。伯爵が思い出せればいいわ」
「はぁ……」
興味などない。
どの道、社交界には出るのはこれが最後なのだ。
「もう、よろしいですか、夫人」
「ええ、伯爵。今夜は話せて良かったわ」
「それはどうも」
大した会話などしていないと思ったが、それを口には出さなかった。
伯爵は夫人から離れようと背中を向ける。
その背中に夫人が声を掛けた。
「ねぇ、伯爵」
「……まだ、何か?」
「──『真実の愛』は、もう見つけられた?」
「は……?」
驚いて振り返る伯爵に、夫人はにこやかに笑った。
とても綺麗だが、化粧が濃いためか唇は血のように赤く、怪しい魅力が夫人を彩っている。
どうしようもなく惹きつけられるような、そんな女性。
(彼女は……誰だ? 聞き覚えのある声、でも思い出せない……一体、誰……)
「何の、こと……ですか?」
「ふふふ」
夫人は、ただ笑って。
「お気の毒様」
一言だけ残して、伯爵の下から去っていく。
名前も思い出せない夫人。
伯爵は、かつて彼女と知り合いだったのだろうか。
平民女性との仲についても知られている様子だ。
でなければ『真実の愛』など、わざわざ言わないだろう。
「俺の『真実の愛』は……どこにも居ない」
あの日から彼女は姿を消したままだった。
ぼうっとそんなことを考えている間、伯爵の耳にあの侯爵夫人の噂話が聞こえてきた。
「平民女性が貴族の養子になって、今や侯爵夫人ですって。とんだ成り上がりよねぇ」
そんな話が。
(何だ、元は平民だったのか? それは知らないワケだ……。それに見栄を張って子爵家だったなどと)
確かに養子にはなったのだろうが、意図して誤解を招く言い方だった。
「だが」
そうなると伯爵は一体どこで彼女と出会ったのだろう?
侯爵夫人が元平民ならば、社交界で出会ったワケではないのだ。
しかし、平民女性の知り合いなど伯爵には一人を除いて居ない。
そして、あの侯爵夫人は失踪した『真実の愛』の平民女性ではない。
それだけは間違いなかった。
(どこで俺は、彼女と出会ったのだろう?)
声だけは聞き覚えがあったのだけれど。
「ああ……」
だが、そんなことも、もうどうでもいいのだ。
だって伯爵はもう爵位を失う。
社交界とは縁が切れるから。
あの侯爵夫人が何者であろうと、伯爵には関係がない。
ただ、伯爵はこの夜、あの侯爵夫人から目が離せなかった。
あの血のように赤い唇が印象的で。
声も、もしかしたらその顔も。どこか、記憶にあるような……。
「真実の愛……俺の真実の愛は……どこに居る?」
伯爵は、その夜。ただの平民となった。
そして、妻が殺されたあの部屋のベッドの上で……自殺した。
「どうか来世で、また彼女と会えますように」
そんな遺書を残して。
遺書に書かれた『彼女』が妻のことなのか、失踪した平民女性のことなのか。
真実は誰も知らない。