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第1章【3】

 最寄り駅からの帰宅中、ハンナがいつもの公園に入って行った。

「ちょっと休憩しよ。疲れちゃった」

 そう言って、ハンナはブランコに腰を下ろす。待ち合わせやちょっとした休憩のとき、ハンナはいつもブランコに座る。律と蒼は柵に腰掛けるのだ。

「飲み物でも買って来るよ」

 公園の外の自販機に向かって行く律に、ありがとう、とハンナが声をかけた。

「……律は、本当にアナスタシアの記憶がないのね」

 ふと、どこか寂しげにハンナが言う。蒼は小さく頷いた。

「憶えていないほうがいいさ」

 藤堂律に、ジル・アナスタシアの頃の記憶はない。蒼がそうであったようにハンナも記憶が蘇るきっかけがあったようだが、律はそうなり得る事象が起きたとしても自分がアナスタシアだと思い出すことはなかった。

 律にアナスタシアの頃の記憶がないことは、蒼にはすぐにわかった。記憶の蘇った蒼は、律がアナスタシアの魂を有しているとすぐに気付いた。もし律にアナスタシアとしての記憶が蘇った場合、蒼が天使ルーベルだとすぐにわかるはずだ。しかし、律にその様子は見られない。この先、何かをきっかけとして自分がアナスタシアだと思い出すことがあるかもしれないが、現時点では兆候はない。

「やっぱり……アナスタシアには、辛いことがあったのよね」

「そうだな。きみには想像も及ばないことさ」

「…………」

 律にはアナスタシアの頃の記憶が蘇らないほうがいいと蒼は思っている。あのおぞましい闘いから解放され、すべてを忘れて生きることが望ましい。それが彼女の最期の願いだ。もし神がアナスタシアにすべてを思い出させた上で手元に置こうとすれば、アナスタシアは魂の救済を失うことになるだろう。アナスタシアの心は最期の瞬間にはもう崩壊寸前だった。自決も厭わない可能性がある。自ら死を選んだ魂は輪廻転生から外れ、二度と生まれて来ることはない。あの神のことだ。何度でもアナスタシアの魂を手に入れようとするかもしれない。そうなればアナスタシアは壊れてしまうだろう。律を守ることがアナスタシアの心を守ることになる。アナスタシアには二度と苦しんでほしくない。それがルーベルの願いで、それを叶えることができるのは蒼だけだ。

「私、アナスタシアが大好き」ハンナが静かに言う。「助けてくれたことも、一緒に過ごせたことも絶対に忘れない。優しいところも、強いところも、ちょっと可愛いところも大好き。律になっても全然、変わってない。だから私、律が大好き」

 ラクリマは、アナスタシアの過酷な運命を知らない。彼女の前ではアナスタシアはいつも笑っていたからだ。アナスタシアに救われた者は、アナスタシアを女神だと言った。だが、彼女は他の者となんら変わりないひとりの人間だ。彼女自身が救済を求めていたことは、ルーベルしか知らない。だが、知らないほうがいいということもある。人々がアナスタシアを忘れずにいれば充分だ。

「でもね……アナスタシアが私のことを憶えていないのが寂しいこともあるの」

「……それは私も同じだよ」

 小さく呟いた蒼に、ハンナは眉尻を下げて薄く微笑む。

「私なんかよりもっと寂しいよね。ずっと一緒にいたんでしょ?」

「そうだな」

 アナスタシアは神に召し上げられた時点で人間ではなくなった。不老不死の肉体を手に入れたのだ。ルーベルがアナスタシアと行動をともにした時間は、人間の一生分よりはるかに長い。さらに、彼女は死をきっかけに時を遡る。普通の人間である彼女が、永遠にも近い時に耐えられるはずがなかった。

「蒼から見て、アナスタシアはどんな人だったの?」

「きみと同じように思っていたよ」

「そう……」

 アナスタシアは、ハンナの言った通りの人物だ。誰の前でも、アナスタシアはそうだった。

 神の遣いの一族に、神族という者たちがいた。神の制裁の他に死ぬほど方法のない存在だ。アナスタシアは不老不死の肉体を手に入れたが、神族ではなかった。人間には戻れず、神族にもなれず、アナスタシアの心は確実に闇に蝕まれていった。

「蒼、ハンナ。お待たせ」

 律が戻って来るので、ふたりは話すのをやめる。

「蒼はコーヒー。ハンナはココアでいいかな」

「うん、ありがとう」

 ハンナがどう思っているかはわからないが、アナスタシアの過酷な運命を知っている蒼にとって、律が笑っていることが何よりも救いだった。



   *  *  *



 星野家に帰ると、いつも通り律の部屋で勉強会が行われた。相変わらず律は自分の勉強よりハンナに教えることを優先させ、蒼はそんなふたりを眺めながら課題をこなす。律は元々勉強が得意ではなく、高校受験も蒼が指導して必死に叩き込んだ。ハンナに教えることができるのは、そうして懸命に頭に詰め込んだ成果によるものである。つまりはハンナの成績が上がったのは自分の功績だ、と蒼は思っている。

「ふたりはどこの大学に行くの?」

 小休憩のとき、ハンナが思い付いたように言った。

「僕は時津風大学かな」と、律。「そこだったらAOで行けると思うんだよね」

「じゃあ俺もそこにする」

 蒼がさらりと言うと、ハンナは蒼の予想通りに呆れた表情になる。

 ハンナは律を神から守らなければならないことを知らないため、蒼の行動は単なる過保護と思えるだろう。それを話せばハンナも同じことをするはずだ。

「蒼ならもっと良いところに行けるじゃないか」律が不満げに言う。「高校だって、僕に合わせなければもっと上のところに行けたのに」

「学歴には興味がないんでね」

「学生とは思えない発言ね〜」ハンナが呆れて言う。「この調子じゃ、就職先まで同じにするって言い出すんじゃない?」

「何を当然なことを」蒼は肩をすくめる。「律には俺がついていないと」

 律とハンナが一様に呆れた表情になるのを、蒼はまた肩をすくめて流した。

「僕を子どもだと思ってるの?」

「子どもだよ」

「また精神年齢の話?」

「どうかな」

 律を子どもだと思ったことはないが、守ろうとするとそういった扱いになってしまうことは否めない。それを律が不服に思おうが、蒼には他に選択肢がないのだ。そうしなければ、律を神に奪われてしまう。

「僕がひとりじゃ生きていけないと思ってるの?」

「そういう話ではないんだよ」

「じゃあどういう話?」

「さてね」

 律はひとりでも立派に生きていける。ただ、ひとりにするわけにはいかないのだ。ひとりでも生きていけるが、ひとりで神に抗えるとは思えない。そもそも律は、神に魂を狙われていることを知らないのだ。

「まさかとは思うけど」と、律。「ハンナも同じことを言うんじゃないよね」

「当然でしょ?」ハンナは言う。「むしろそうしない理由がある?」

「…………」

 律が苦虫を噛み潰したような顔になるので、今度はハンナが肩をすくめてそれを流した。ハンナは律のそばを離れたくないのだろう。

 ハンナが律を守れるかどうかはわからない。蒼とハンナが律とともにいれば神の手を逃れる確率は上がるだろうが、ハンナは神が律の魂を奪おうとしていることを知らない。彼女が律を守るのは限界があるだろう。

「まあ、みんなで同じところに行けたら楽しいだろうけどさ」

 律は不満げに呟く。おそらく律は、子ども扱いされていることより、蒼が自分に合わせることで実力に見合わない進路を目指させることになるというのが不服なのだろう。確かに、蒼の成績ならもうひとつふたつ上の大学に進むこともできる。ハンナもこの調子で勉学に励めば可能だろう。律としては、蒼とハンナに自分の実力を遺憾なく発揮してほしいと考えているのかもしれない。

「私、ふたりとはふたつ離れてるから」と、ハンナ。「同じ高校に行っても一年間しか一緒に行けないじゃない? でも、大学だったら二年間も一緒に行けるのよ? さらに就職先も同じにしたら、ずっと一緒に行けるの」

「さすがに就職先は同じところに受かるとは限らないじゃない」

 苦笑いを浮かべる律に、ハンナは拳を握りしめて見せた。

「内定をもらえるまで何度も試験を受けるわ」

「そうしてまで同じところに行きたいの?」

「うん。律と一緒にいたいの」

 ハンナは真剣な表情になって言う。律はきょとんと目を丸くした。

「どうしてそこまでして?」

「んー……律が好きだから、かな。蒼だってそうでしょ?」

「やめてくれ」

 さすがに流せず顔をしかめる蒼に、ハンナはおかしそうに笑った。

 律はハンナがともにあることを望む理由を知らない。律からすれば、不思議に思うことだろう。だが、律にその訳を話すわけにはいかない。こうして本音を交えつつ誤魔化し、謎を残したままにするしかないのだ。

 いつまで律を守れるかはわからない。いつまで守るのかもわからない。蒼が望むのはアナスタシアの魂の救済、神からの解放だ。そのためには、どれだけの時間がかかったとしても、律を守り抜かなければならないのだ。





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