メタモルフォーシス
桜の見頃といえば、やはり満開だろう。枝いっぱいに花が咲いて、風にはらはら散って。でも、僕は咲く前の桜も結構好きだったりする。
特に蕾が膨らみ始める時期だ。まだ開花には遠くて、ぱっと見はただの枯れ木にしか見えないとき。この頃少し遠くから見ると、木がほんのり色づいて見える。たくさんの花びらからなる華やかな衣じゃなくて、うっすら色を漂わせているというか。並木だといっそうわかりやすい。花も葉もない木の輪郭が蕾の色を醸している光景を見るたび、そろそろ春かぁって思う。
そう、まさに今だ。
「香本ー」
「あ、ごめん」
前の席から声をかけられて、慌てて手を伸ばした。終業式の日はやたら配布物が多い。クラスだよりとか、春休み中の注意喚起とか、新学期に伴うあれこれとか。この五分でいくつプリントを回したかわからない。B5、A4、B6。サイズも内容も雑多な紙を、ろくに中身も読まず片端から畳んでクリアファイルにしまっていく。
ただ今回の配布物はちょっと毛色が違った。生徒会誌だった。
生徒会誌『羽化』。その名の通り生徒会が編纂している小冊子だ。着任、転任の先生の挨拶とか、体育祭やクラスマッチの結果とか、部活紹介とか、そういうのが雑多に載っている。先生のインタビューは基本真面目だけどたまに変な人がいるし、クラス紹介ページは寄せ書きもイラストも写真もおふざけもなんでもありだ。後ろのほうには文芸部の原稿とか有志のクロスワードパズルなんかもあって、その混沌具合がおもしろくて僕は好き。
僕はぱらりと表紙を開いた。表紙は美術部の有志が描いているらしい。タイトルの『羽化』に相応しく、白い蝶が羽ばたいている。絵には詳しくない僕でも綺麗だなあと思う。
開いてすぐは校章と校歌、校長の挨拶。正直そんなのには興味がないからさっさと飛ばして、三年担任団のメッセージも飛ばす。だって知らない先生ばっかりだし。そうしているうちにクラス紹介ページに来た。三年生はやっぱり気合が入っている、気がする。クラス集合写真を囲むように全員分のメッセージが入っていたり、執筆担当者がつらつら思い出を語っていたり。かと思ったら絵しりとりや川柳集なんかあるから笑ってしまう。
……うちのクラスはなに書いてるんだろ。
思い立ってページをめくった。二年三組。三組。……あった。ざっとページをみて思い出す。そうだそうだ。
確か冬休み前だっただろうか、うちのクラスの『羽化』編集委員がアンケートを取っていた。「クラスメイトひとりひとりについて一言(七文字以内)で表してください」っていうやつ。それを集めて、多かった意見やおもしろいワードを採用するらしい。自己紹介ならぬ他己紹介だ。たとえば野球部の青井くんは「バカ強肩 朝休みに早弁 黒髪ロングラブ」だし、帰宅部の井上くんは「眼鏡アザラシ ゲーム達人 鞄の重さヤバい」。大山くんは「いちご推し 脱いだらすごい 彼女ウラヤマ」だ。意外とみんなクラスメイトのこと知ってるもんだなと思う。性癖ばらされてる人もいるけど。僕はあんまり思いつかなくて、適当に当たり障りないことばかり書いてしまった。優しいとか眼鏡とか。
出席番号順に並んでいるそれをぼーっと読んでいく。結構おもしろくて、ホームルーム中なのに吹き出しそうになった。そうして僕の番号に辿りつく。さてなんと書いてあるのか。怖さ半分楽しみ半分で目を向けた。
――かわいい
その四文字に指先が震えた。
かわいい、かわいい。脳内で聞き心地のいい低音が蘇って、不規則に脈が跳ねる。
……まさか。いや。
咄嗟に教室の前方を見た。廊下側から二列目、前から三列目。すらりと背を伸ばして座る男は、まじめに二年生最後のホームルームを受けている。開けた窓から風が入って、はらはらと癖のない髪が揺れていた。
彼が、書いたのか。いやまさか。
それに抜いたって「かわいい」などと言われる心当たりはない。地味だし、良くも悪くも目立たない。顔にしたって平々凡々、せいぜいげっ歯類に似てると言われるくらいだ。なんだっけ、カピバラって言われたことがある。褒められているかは微妙なところだ。女子から、なんて期待もない。なぜならここは男子校である。
だったら、やっぱり彼が?
思い至った瞬間頬がにわかに熱くなって、僕は『羽化』を閉じた。そうして竹ちゃん先生の話を聞こうとする……けど全然だめだ。聞いた端から耳を通り抜けていく。
二年生は今日で終わり、次に教室に入るとき僕たちは三年生になっている。この教室でクラスメイトたちと机を並べることはないし、そもそも教室自体が別の階だ。そう思えば感傷的なってもいいはずなのに、それどころじゃない。意味もなく視線を彷徨わせ、逃げるように外を見た。だって前を見ると彼の姿が視界に入ってしまう。それだけでもうだめだった。竹ちゃん先生には悪いけど、ホームルームそっちのけで「あ、桜があるなぁ」なんて心のなかでわざとらしく呟く。三月半ばだから花はない。すなわちちょうど僕が好きな頃合いだった。グラウンドをぐるり囲むように並び立つ木々は、その外側にぼんやり濃いピンク色を漂わせている。
一心不乱に咲いてもいない桜を眺めているうちに、二年生最後のホームルームは終わってしまった。なんとも締まらない。
「香本」
「ひっ」
とりあえず帰ろう、と鞄に手を伸ばしたとき声がかかった。その響きはまさにさっきまで反芻していたそれで、再び心臓が跳ねる。
振り返れば、僕よりも背が高い男子生徒が立っていた。僕は奇声を誤魔化すように笑いかける。
「えと、平賀くん。……えー。一年お疲れ」
「うん。香本もお疲れ」
彼――平賀くんが笑う。顔のパーツもよければ配置のバランスもいい、まぁ率直に言って美形な笑顔はやたらとまばゆい。
平賀くんはクラスメイトだ。席が近かったときには結構喋ったけど、普段つるんでいる相手が違うから席が変われば接点もない。何の用だろう、と落ち着かない気持ちになる。
彼はふと僕の机上へ目を向けた。
「『羽化』読んだ?」
「え? あ、うん。まぁちょっとは」
「クラスのページは見た?」
みたび脈がブレた。たぶんだけど、いま心電図を繋いだらやばい波形だと思う。
「ちょっと、だけ」
「うん」
僕の答えに平賀くんはにこにこ笑っている。その笑顔に、いよいよ疑いは確信に変わった。膝の上で拳を握る。ふと机に影が落ちた。彼が距離を詰めてきたのだ。
「平賀くん、さ」
「ん?」
「クラスページの僕のとこなんだけど」
「うん」
「……あれ書いたの、君?」
顔を見るのが怖い。僕はうつむいた。椅子のすぐ傍に彼のスリッパが見える。几帳面な文字で「平賀」と記名してあった。二年間使っているスリッパは白いところがやや煤けている。
「そうって言ったら、どうする?」
楽しそうな声だった。視界の隅に彼のネクタイが見える。黒い生地に赤いラインが一本。僕と同じネクタイだけど、彼は銀色のタイピンを付けている。机に彼が手をついた。ゆっくり身を屈めて、僕の耳元に顔を伏せる。ふぅ、と息がかかってくすぐったい。
「香本。どうする?」
やっぱり彼だったのだ。かわいい、と彼の声が脳内でこだまする。妄想なんかじゃない。この声がその四文字を紡ぐのを、いままで何度も聞いてきた。
……どうするって、言われても。
僕はじりじりと椅子の反対端にずれた。でも動いたぶんだけ彼が身を乗り出してくる。狭い椅子の座面じゃ限界があって、たちまち隅っこに追い詰められた。僕は観念した。
「……それ」
「うん」
「言わないでって、言ったじゃん」
声を憚っても、この距離なら問題なく伝わった。あは、と平賀くんが漏らした息が耳朶を打つ。
そう。僕はちゃんと言ったのだ。
平賀くんと席が近かった頃、なにを気に入ったのか彼はよく僕に構った。どういうつもりだったのかはわからない。けれどなにかにつけて彼は言った。
――かわいい。
――かわいいな。
――香本、かーわいい。
――かわいい。ほっぺ触っていい?
かわいい、かわいい、かわいい。
揶揄っているならまだわかる。でもそうじゃなかったから困惑した。平賀くんの向ける視線はいつだってまっすぐで、間違っても僕を馬鹿にしているふうじゃない。
かわいいと言われること自体はどうでもいい。かっこいいって言われたほうが嬉しいけど、親とか年の離れた従姉が口癖のように言うから正直慣れている。いや慣れているはずだった。でも平賀くんのいうそれは全然慣れなくて、むしろ言われるたびにどんどん落ち着かなくなっていって。かわいいって言いながら触られるともっとだめだ。頬を揉まれたり髪を撫でられるたびに心臓がばくばくしてのぼせそうになる。だから言ったのだ。「かわいい」って言わないでって。結構強めに。
実際、それ以降平賀くんは口にしなくなったし、席替えもあって疎遠になった。だからもう終わったと思っていた。なのに。
「わかったって言ったじゃん」
「うん」
「なのに、どうして」
「言ってないよ」
「は?」
思わず眉をひそめると、平賀くんは器用に片手で僕の『羽化』を開いた。僕より長い指先がぱらぱらとページをめくる。二年三組のページに辿りついた。僕の紹介部分を示す。
せいぜい二十文字程度の文字列を指がなぞった瞬間、僕はどういうわけか肌を直に触れられたような気持ちになった。
「言ってないよ。書いただけ」
「……」
屁理屈だ。
そう思うのに、見せつけられた「かわいい」に言葉が出なかった。彼の指先はこの四文字を撫でている。
――かわいい。
ほんの数か月前まで何度も言われていた。いまでも覚えている。彼のこの喉が、この舌が紡ぐ「かわいい」をよく覚えている。でも言わないって約束したのに。もう一生聞かないで済むはずだったのに、こんなところに書くなんてひどい。クラスのみんなが見る。それどころか同級生も他学年も先生も、ひょっとすると保護者だって。誰の目に触れるかもわからない場所で、堂々と彼は「かわいい」と書いた。これじゃあ生徒会誌を見るたびに思い出してしまう。ページをめくるたびに彼に囁かれてしまう。
「そんなに、言いたい?」
「言いたいよ」
なんとか茶化そうとしたのに、平賀くんは大真面目に即答した。彼の指はなおもあの四文字をさすっている。いまやそこだけが浮き上がって見えるようだった。輪郭に鮮やかな色をまとって、見て見てと僕の目に飛び込んでくる。まるで窓の外の桜みたいに。
僕は思いきって顔を上げた。予想よりずっと近くに平賀くんの顔がある。ちょっと怯んだ。
「香本」
焦れたように平賀くんが空いた手を僕の手に重ねた。ちゃんとみんなから物陰になるようにするあたり、彼はとても上手だと思考の片隅で思う。なにって、退路を防ぐのがだ。
久々に触れた手は記憶よりもずっと温かい。だから、口の間からぽろっと零れてしまった。
「……言いたいなら、いいよ」
「香本、」
「でっ、でも」
僕は彼の言葉を遮った。重ねられた手の下で己の手を翻して、ぎゅっと指を絡める。
「かわいいだけは、やだ……」
言わないでと言ったくせに、心のどこかで惜しく思っていた。彼の「かわいい」がどうしても忘れられなくて、この数ヶ月何度も反芻した。カセットテープなら回しすぎて擦り切れているところだ。
でも、ただの「かわいい」だけじゃいやだった。それだけじゃ足りない。……けれどそんなこと、自分から関わりを絶っておいて言えるわけがなかった。
平賀くんは黙っている。沈黙が居たたまれなくて、僕は手を引き抜こうとした。だがびっくりするくらい強く握り返されて叶わない。
香本、と名前を呼ばれた。
「――かわいい」
「っ」
囁かれた瞬間どろりと脳が溶けた、気がした。「かわいい」だけじゃない、声からも手からも伝わる熱がすごく心地いい。頭がふわふわとして、口の端が勝手に綻ぶ。彼の声が響いたところから身体が作り替えられていくようだった。指の一本、その爪先まで甘く痺れる。色づいていく。
「香本、一緒に帰ろっか」
「……うん」
平賀くんが笑った。
彼の手が生徒会誌から離れて、僕の鞄に伸びる。押さえを失った冊子はぱたりと閉じて、その裏表紙を露にした。
はたしてその一面には、『羽化』の名にふさわしく蛹から飛び出す蝶が描かれていた。枝に掴まってまだやわらかい翅を鮮やかに伸ばす一頭と、その傍らで彼の羽化を待つように翅を休める、もう一頭の蝶が。
お読みくださりありがとうございました。