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小悪魔達の教育係  作者: パンダカフェ
グレイスとクロエ
7/21

虹の彼方

 ジェイムズ様が向かったのは、旦那様の書斎だった。

 書斎の中は壁一面が書棚になっており、上の方にある書物を手に取るには梯子(はしご)を使わなければならない。


 ジェイムズ様は書物の棚には目もくれず、扉から向かって正面の上方にある、明かり取りの小さな窓に立てかけられた梯子を昇り始めた。

 ギシギシと音を立てながら昇りつめ、窓の近くの天井をコンコンと叩く。

 すると天井の板が一枚外されて、グレイス様が顔を出した。


「グレイス様!」

 思わず大声を出した私の口を、アンナが慌てて塞ぐ。


「静かに! 今、他の人が来たら困るわ」

 アンナは私にそう言ってからグレイス様の方へ向き直り

「お迎えに参りました。足元に気を付けて梯子を降りてきて下さい。決して無理強いはしないとお約束します。グレイス様のお気持ちを聞かせて下さい」

 と伝えた。


 だが、グレイス様は

「嫌よ」

 と言って顔を引っ込めてしまった。


 アンナは動じる様子もなく

「ジェイムズ様、ありがとうございました。後は私に任せていただけませんか?」

 と言って、ジェイムズ様を真っ直ぐな目で見つめる。


 ジェイムズ様はしばらく迷った末に梯子を降り

「頼んだよ」

 と言って書斎から出て行った。


 アンナが天井の穴に向かって語り始める。


「ハロルド様は、ずいぶん悪評高い人物だそうですね。資金繰りに困った商人や、新しく商売を始めたいという貧乏人に金を貸し、返せないとなれば乱暴を働いて取り立てる。先祖から代々受け継いだ土地や屋敷であっても容赦なく取り上げ、資産の無いものには厳しい労働を課して返済を迫るのだとか」


 カタリと音がして、天井の穴からグレイス様が顔を覗かせる。


「そうよ。とんでもない悪党だわ。親切面して人の弱みにつけ込んで、さらにお金をむしり取る。悪魔のような人間よ。いくら私が淑女らしくないからといって、どうしてあんな相手と結婚しなくてはならないの? 私、そんなに悪いことをした? 私はただ、本を読んでたくさんの知識を得て、それを他の人にも伝えようとしただけじゃない」


「世界にはたくさんの疑問が溢れていて、その疑問に答えを出そうと考えを巡らした人々が、自分なりの意見を書物に記して残した。私はその素晴らしさを他の人達にも知ってほしかった。誰かとこの感動を分かち合いたかった。ただ、それだけだったのに……。それなのに、私は周囲の人々から(さげす)まれて、悪魔と結婚させられそうになっている。どうして私がこんな目に遭わなければいけないの? ねえ、どうして? 答えてよ!!」


 グレイス様の悲痛な叫びは、私の胸を深く抉った。


 ああ、この人はこんなにも苦しんでいたのか。

 不機嫌に見えたあの顔つきは、苦悶の表情だったのか。

 そのことに気が付いた私は、グレイス様を疎ましく思っていた自分の心根の醜さに、何とも言えない気持ちになった。


「グレイス様も、ハロルド様と同じように悪評を立てられているそうですね」


 アンナの言葉に、グレイス様が力なく同意する。


「ええ、そうよ。『気難しくて学者気取りの本の虫』『知識をひけらかして人を見下す無礼な令嬢で、誰にも相手にされない』そう言われているわ」


「では、そのような悪評を広める人物と、悪評を立てられているグレイス様。人々は、どちらの人物と親交を深めたいと考えるでしょうか」


 アンナが質問すると、グレイス様は苛立たしげに声を荒げた。


「そんなの決まってるじゃない。誰だって悪評を広める側につくわ。そうして、私のことをよく知りもしない人達まで一緒になって噂を広めるのよ」


「多くの場合は、そうかもしれません。けれども、飛び交う悪評にも惑わされず、グレイス様との交流を望む人物もいらっしゃいます」


「……そんな人、いるわけがない」


「お一人いらっしゃるではありませんか。グレイス様に婚約を申し込まれたハロルド様です。旦那様のお話では、ハロルド様は知性豊かで対等な会話を楽しめるお相手を生涯の伴侶として求めているとのことです。他の方にはない魅力をお持ちのグレイス様だからこそ、関心を持たれたのですよ」


「あの方と私とでは、親子ほども歳が離れているわ。他の女性には相手にされなかったから私を選んだだけで、若い女なら誰でもいいのよ」


「ハロルド様が若かりし頃、多くの御令嬢が彼との結婚を望んだそうです。莫大な資産をお持ちですからね。けれども、ハロルド様は誰とも結婚しませんでした。どなたも、彼の望む条件を満たしてはいなかったからです。あの方は、若い女性だからグレイス様を伴侶に望んだのではありません。グレイス様が生涯を共にするのに相応(ふさわ)しいお相手だとお考えになったから結婚を申し込まれたのです」


「馬鹿なこと言わないで。私、あの方とお会いしたのは一度きりしかないのよ。招かれた晩餐会で隣の席になって、ほんのひと時、会話を交わしただけ。それで何が分かるって言うの?」


「分かる方もいるのです。短い時間であっても、グレイス様が思慮深く芯の強い人間なのだということを、ハロルド様は感じ取ったのでしょう。愛想の無い高圧的な物言いの奥に隠された、(たぐ)(まれ)なるグレイス様の美点を、ハロルド様はしっかりと見抜かれました。そして、醜悪な噂話にも惑わされず、婚約を申し込まれたのです」


『愛想の無い高圧的な物言い』という言葉に引っかかったのか、グレイス様は少し不愉快そうな表情を浮かべたが、アンナは構わずに続けた。


「他者の言葉に左右されず、真っ直ぐにグレイス様を見て下さるハロルド様に対して、どのような態度をお示しになりますか? このまま天井裏に身を隠して婚約破棄という事態を招き、家名に泥を塗りますか? それとも、すぐに着替えて応接間に向かい、ハロルド様の真のお姿をご自分の目で見極めますか?」


 アンナの問いに、グレイス様は何も答えなかった。


 しばらく沈黙が続き、私が諦めかけた頃、グレイス様が天井の穴から足を突き出し、ゆっくりと梯子を降りてきた。


 アンナが梯子の下に歩み寄り、手を差し出す。

 グレイス様はその手をとり、優雅な仕草で床に足を下ろした。



 そこからは、慌ただしく時間が過ぎ去った。

 メイド達が三人がかりでグレイス様の身だしなみを整え、応接間へと送り出す。


 応接間の扉を開けると、そこには奥様やメアリー様、そしてジェイムズ様の他にクロエ様もいた。


 グレイス様が姿を現し、一同は安堵の表情を浮かべたが、クロエ様だけは膨れっ面をしている。

 クロエ様は先程からハロルド様を質問責めにしていたそうで、グレイス様の登場により邪魔をされたと憤慨しているようだ。


 遅れたことのお詫びを述べるグレイス様を押しのけるようにして、クロエ様がハロルド様に質問を続けようとする。


 奥様達の顔はひきつっていたが、ハロルド様は口の端に笑みを浮かべて愉快そうにクロエ様の話に耳を傾けている。


「それでは最後に教えて下さい。ハロルド様は、虹の彼方に何があると思いますか?」


 私は「またその質問か」とうんざりしたような気持ちになったが、ハロルド様は真面目な顔で考え込んだ。


「そうだね……虹の始まるところは、暗くて汚い沼みたいな場所なんじゃないかな」


 その場に居合わせた人々は、ハロルド様の答えに戸惑いを隠せなかった。


「あんな綺麗な虹が、暗くて汚い沼から生まれるって言うんですか? どうして? 理解できないわ!」


 クロエ様は信じられないという表情で肩をすくめる。


「この世のどこかに、泥の沼に咲く美しい花が存在すると聞いたことがあってね」


 ハロルド様は、静かに語り始めた。


「その話を聞いた時に思ったんだ。醜く汚れた泥の中からも、美しいものは生まれてくるんだなって。それに……もしかしたら、汚くて何の価値もないように見えるだけで、実は滋養に富んだ素晴らしい泥という可能性だってある」


 俯いて話を聞いていたグレイス様が、顔を上げてハロルド様の方を見る。


「私が家督を継いで新しく金貸しの事業を始めた時、周囲の人間には笑われたよ。『金なんか貸したって返ってくるわけがない』とね。実際、踏み倒そうとする人間も多かった。そんな時は見せしめも兼ねて、少々手荒なやり方で回収したこともある。言い訳になるかもしれないが、金貸しの事業を続けるためには、必要なことだった。手は差し伸べるが、返済は必ずしてもらう。もちろん利息を付けてね。そこは徹底した。そうしなければ、事業として成り立たない」


 ハロルド様は、クロエ様ではなくグレイス様に向かって話をしているように見えた。


「真面目に商売をしていても、不運が重なったり騙されたりして、窮地に立たされてしまう人がいる。能力があっても、元手がなくて貧しい生活から抜け出せない人もいる。そんな人達に手を貸したい。私はそう思って金貸しの事業を始めたんだ。暗くて汚い沼にも綺麗な花は咲くし、虹だって架かる。私はそう信じているんだよ」


 ハロルド様が話し終えると、クロエ様は笑顔になった。


「素敵な考えだと思うわ! ハロルド様、またお話を聞かせてね」


 入口付近で待機していた私とアンナは、奥様の指示でクロエ様を連れて退室した。


 クロエ様はハロルド様をいたく気に入ったようで、滞在中は何かと理由をつけては側に行って話しかけていた。


 グレイス様も日に日に表情が柔らかくなり、ハロルド様がお帰りになる際には寂しげな表情を浮かべるほどで、お気持ちに大きな変化があったことを窺わせた。


 そして「ハロルド様に恥をかかせられないから」と言って苦手な淑女教育にも前向きに取り組むようになり、奥様と旦那様を喜ばせた。


「そろそろ私達の役目も終わりね。旦那様にお伺いして、お(いとま)する日を決めましょう」

 と言うアンナに、私は溜め息をつきながら言った。

「クロエ様の質問癖を封じるという難題が残っているじゃない」


 するとアンナは

「あら、魔法の言葉を使えば、クロエ様の質問なんて簡単に封じることができるのよ。サラが自分で気付くのを待っていたんだけど……」

 と言いながら私の方を見つめる。


「魔法の言葉? そんなものがあるんだったら、早く教えてくれたらいいのに!」


「少しは自分で考えなくちゃ。……今のヒントでも分からない?」


「全然分からないわ! もったいぶらないで早く教えてよ!」


 私が文句を言うと、アンナは目を細めて魔法の言葉を教えてくれた。

 そして、その効果はてきめんだった。



「ねぇサラ、月と太陽はどうして同時に見られないのかしら」


 アンナから魔法の言葉を教えてもらった私は、クロエ様から質問を受けるたびに、こう答えた。


「いい質問ですね。クロエ様はどうしてだと思いますか?」


「そうね……太陽と月は仲が悪いんじゃないかしら。空を取り合って、喧嘩しているのよ。それで、神様が昼と夜で半分こしなさいって言ったんだと思う」


 へえ、と私は感心した。

 本当の答えは絶対に違うのだろうけれど、クロエ様の発想は自分には無いもので、聞いていて面白い。


 そんな調子で質問に対応するうちに、クロエ様は

「なぜ? どうして?」

 ではなく

「私はこう思うの」

 とか

「私はこう考えたんだけど」

 と口にするようになった。


 そのうちに私は不安になってアンナに尋ねた。


「クロエ様から質問されなくなったのは良いんだけれど、少し困っていて……。クロエ様の思いついた答えを教えてもらっても、それが合っているのか分からないし、どう考えても違うんじゃないかっていう時もあるのよ。でも、私は正しい答えなんか知らないし……どうしたらいいのかしら?」


 するとアンナは私に質問で返した。


「サラに一つ聞きたいんだけど、正しい答えって何?」


「そんなの、偉い学者とかが調べたり研究したりして出した答えに決まってるじゃない」


「それって、どうやって知るの?」


「どうやってって……頭の良い人に教えてもらったり、本に書いてあったりするのを読めばいいんじゃないの?」


「でも、昔の書物に書かれていることや、偉人と言われる人物が言ったことの中にだって、今は否定されていることがたくさんあるのよ?」


「そうなの? それじゃあ、何が正しいのか分からないじゃない」


「そうよ。何が本当に正しいのかなんて、きっと誰にも分からない」

 アンナはそう言ってから自分のこめかみを指差し

「だからね、大切なのは正しい答えを知ることではなくて、自分なりに考えながら物事に向き合うことだと思うの」

 と持論を述べた。


「話が難しくてよく分からないけれど、要するにクロエ様のことは気にせず放っておけば良いってこと?」


 私が尋ねると、アンナは笑いながら答えた。


「そういうことよ。探究心あふれるクロエ様なら、いずれ自分の力で望む答えに辿り着けるはずだもの」


「クロエ様は探究者だものね」


「そうよ」


「そして私は勤勉な労働者」


「そうね。でも、サラにはもう一つの役割もあるのよ」


「どんな?」


「私の大切な友人という役割よ」


 まさかそんな答えが返ってくるとは思っていなかったので

「え?」

 と聞き返したら

「さあ、話はこれくらいにして、そろそろ寝ましょうか」

 と、はぐらかされてしまった。


 寝る支度をしてランプの灯りを消す。

 しばらくしてから、隣のベッドにいるアンナに向かって

「私にとっても、アンナは大事な友達よ」

 と声をかけてみたが、既に眠ってしまっているようで、返事はなかった。


 両親を亡くしてから、誰かに大切だと言われたことなどなかった。


 じんわりとした(ぬく)もりを心に感じながら、私はゆっくりと目を閉じた。

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