ナイフとパン
翌日から、フィリップ様は事あるごとに私を虐げ、痛めつけようとした。
わざと紅茶のカップを落として割り、片付けている私の頭上から花瓶の水をかけるなど、その内容のほとんどは幼稚でくだらないものであったが、私の心には少しずつダメージが蓄積されていった。
そんなある日、旦那様と奥様は泊まりがけでご友人の別荘へと向かわれた。
するとフィリップ様は
「今夜、何か口実を作ってリアムをエドワードから引き離せ」
と私に命じた。
リアムというのはエドワード様のお世話係で、屈強な体躯の無口な男であった。
何か良からぬことを企んでいるような気がして、私は咄嗟に
「それは……」
と拒否しそうになったが、弱味を握る良い機会かもしれないと思い直し、慌てて口をつぐむ。
「今夜、必ずだ。いいな?」
フィリップ様に念を押されて、私は頷いた。
とは言っても、私一人では心許ない。
そこで私は、ラルフを捕まえて協力を仰ぐことにした。
「ラルフ、今夜フィリップ様が何かしようとしているわ。リアムをエドワード様から引き離すように言われたの」
私が深刻な顔で告げても、ラルフは眉ひとつ動かさない。
「俺も、フィリップ様から別の指示を受けている」
とラルフが言うので
「どんな指示?」
と尋ねたのだが
「君は知らなくていい。余計なことは考えず、フィリップ様の言う通りにしろ」
と言って、ラルフは立ち去ってしまった。
ラルフの態度は腹立たしかったが、食い下がったところで何か教えてくれるとも思えない。
私はため息を一つ吐いて気持ちを切り替え、リアムを呼び出す方法に頭を巡らせた。
夜になり、私はリアムの部屋へと向かう。彼は他の使用人達とは異なり、エドワード様の部屋のすぐ隣に個室を与えられていた。
扉をノックすると、少し間を空けてリアムが顔を出す。
突然訪ねてきた私を見て、さぞ驚くだろうと思っていたのだが、彼はまるで私が来るのを知っていたかのように、普段と変わらない様子で接してきた。
私はぎこちない笑顔を作りながら、嘘を並べ立てる。
「あの……ちょっと相談があるの。他の人に聞かれたくないから、庭に出て話せると嬉しいんだけど……」
これまで親しく話したことなど一度もないのに、こんなお願いをするのは無理があるかしら……と思いつつ、私はリアムの目を見つめた。
「分かった」
リアムは二つ返事で了解すると、先に立って歩き出す。
あまりにも上手くいき過ぎて、私の方が戸惑ってしまう。
しかしリアムは、庭ではなくタオルやシーツなどを収納する小部屋へと入り、私を招き入れると扉を細く開け、険しい顔つきで部屋の外を見ている。
「あの……」
話しかけようとする私に
「静かに。サラも見たいなら、こっちに来い」
と言ってリアムは体を少しずらし、私にも扉の隙間から部屋の外を覗くよう促した。
しばらくするとフィリップ様とラルフが廊下に姿を現し、彼らはまず最初にリアムの部屋をノックした。
そしてリアムの不在を確認した後、二人はエドワード様の部屋をノックして、部屋の中へと入っていく。
まもなくフィリップ様が再び廊下に現れ、エドワード様を乗せた車椅子を押したラルフも後に続いた。
三人は階下へとつながる長い階段の前で足を止め、何か話をしているようだ。
すると、突然フィリップ様がラルフを押しのけ、車椅子のハンドルに手をかけた。
私は我を忘れて扉を開け放ち
「やめて!!」
と叫んだ。
一瞬フィリップ様が動きを止め、その隙にラルフがフィリップ様の口元に布を押し当てる。
私は一目散に三人の元へと駆けつけた。
床に倒れ込んだフィリップ様に近付こうとする私を、ラルフが止める。
「心配するな。薬を嗅がせて気を失わせただけだ」
冷淡な声で言うラルフに、私は思わず噛みついた。
「あなた、一体どういうつもり? ちゃんと説明してちょうだい!」
騒ぎを聞きつけ、他の使用人達が集まってくる。
いつのまにかそばに来ていたリアムが
「何でもない。みんな部屋に戻れ」
と使用人達を追い払い、フィリップ様を横抱きにして運び去る。
私も後を追おうとした時、エドワード様が口を開いた。
「フィリップの本性を暴くために、伝手を頼ってラルフとサラを雇ったのは、僕の父だ。寄宿舎で転落事故が起きたことは知っているな?」
エドワード様の問いに私が頷くと、彼は話を続けた。
「転落した少年は、一命をとりとめてこう言ったらしい。『フィリップに背中を押された』とね。父はあらゆる手を使って真相を揉み消し、フィリップを屋敷に連れ戻すことにした」
「僕が車椅子で生活することになったのも、フィリップに階段の上から突き落とされたからだ」
「だが、体裁を気にした父の意向で、表向きは事故として片付けられた。父はフィリップを寄宿舎に入れて家から遠ざけ、全てを無かったことにしようとしたんだ」
語り続けるエドワード様の目はうつろで、生気がない。
「だけどフィリップは、性懲りも無く寄宿舎で同じことを繰り返した。そのことを知った父は、これ以上犠牲者が出る前に何とかしなければいけないと考えたんだ」
「フィリップは常に自分が一番でいたいんだよ。他人を虐げることでしか優越感に浸れないし、秀でた者は引きずり下ろさなければ気が済まない」
「フィリップが屋敷に戻ってくると聞いて、今度こそ僕は殺されるかもしれないと思った。僕が死ねば、将来的にすべての財産はフィリップのものになるからね。でも母は、フィリップが心を入れ替えてくれるのではないか、という希望を捨てきれずにいた。だから、試すことにしたんだ」
そこまで話すと、エドワード様はラルフの方に目をやる。
「ラルフからフィリップに、事故に見せかけて僕を亡き者にするという計画を持ちかけてもらった。……フィリップが断ってくれるかもしれないという、一縷の望みをかけてね」
エドワード様の悲痛な声に、私は返す言葉がなかった。
「でもフィリップは断らなかった。それどころか、嬉々として僕の命を奪おうとした」
声を震わせながらそう言うと、エドワード様は沈黙した。
この人もきっと、奥様と同じように信じたかったのだろう。
フィリップ様にも、良心のかけらがあることを。
両足の自由を奪われ、命の危険にさらされても尚、信じようとしたのだ。
戻ってきたリアムは
「計画通り、屋敷の前に待機していた馬車に引き渡してきたぞ」
とラルフに告げた後
「お部屋に戻りましょう」
とエドワード様に声をかける。
エドワード様が頷き、リアムは車椅子を押して部屋の方へと向かう。
二人の後ろ姿を見送っていると、ラルフが話しかけてきた。
「さっきは助かった。最後にエドワード様が説得を試みたのだが、フィリップが逆上してしまってね。サラが大声を出してくれなかったら、最悪の事態になっていたかもしれない。本当に……ありがとう」
ラルフからお礼を言われるなんて初めてのことだったので、私は面食らってしまった。
だが、今なら教えてもらえるかもしれないと思い、気になっていたことを尋ねてみる。
「フィリップ様は、これからどうなるの?」
ラルフは少し迷ってから答えてくれた。
「彼は死ぬまで幽閉される。不祥事を表沙汰にしたくない名家の人々のために、問題を起こした者を幽閉する場所があるんだ。そこに連れて行かれた者は自由を奪われ、二度と人目に触れることなく生涯を終える」
自分から尋ねておきながら、聞かなければよかったと後悔した。
黙り込む私に、ラルフが言葉を続ける。
「俺は当然の報いだと思っている。全ての行いは、いつか必ず自分に返ってくる。良いことも悪いことも、必ずだ」
「それなら、ラルフもいつか報いを受けることになるじゃない」
「覚悟の上だよ」
そう言って、ラルフは少しだけ微笑んだ。
翌朝、使用人達が集められて「フィリップ様は重い病に罹り、遠方の療養施設で過ごすことになった」と伝えられた。
私とラルフは荷物をまとめ、屋敷から立ち去った。
自分の部屋に荷物を置いてから、私は孤児院の方へ顔を出した。
ちょうど昼食の時間だったようで、いい匂いがしてくる。
食堂に入ると、アンナが大きな鍋からスープをよそって子供達に配っているところだった。
アンナが私に気付き、笑顔で手を振る。
久しぶりにアンナと再会した私は、弾むような気持ちで手を振り返した。
アンナの手伝いをしようと歩き出した時、子供達が座るテーブルの方で騒ぎが起きた。
トニーがユリアのパンを取り上げたのだ。
パンを取り返そうとしたユリアをトニーが突き飛ばし、倒れた彼女のポケットから古びたコインが飛び出す。
床に落ちたコインを拾い上げ、トニーは自分のポケットにしまう。
「返して!」
と叫ぶユリアを無視して、トニーは取り上げたパンにかぶりついた。
ユリアは立ち上がると、何を思ったのか調理場に駆け込んだ。
そして戻ってきた時には、鋭く尖ったナイフを手にしていた。
子供達の間から悲鳴が上がる。
「ユリア!」
叫びながら、私とアンナはほぼ同時に走り出した。
ユリアがナイフを振り上げる。
どうしよう、間に合わない。
そう思った次の瞬間、ユリアはナイフを自分の髪にあてて切り落とした。
食堂が静寂に包まれる。
私は足を止め、彼女の行動に見入った。
ユリアは少しずつ髪を束にして切り落とし、テーブルの上に並べていく。
アンナは彼女のすぐ近くまで行ったが、止めることはせずにその様子を見守っている。
髪を切り終えたユリアは、まっすぐにトニーを見据えて言った。
「その薄汚いコインより、私の髪の毛を売った方がお金になるわよ。金髪は値打ちがあるの。遠慮せずに持って行って。ただし、コインと引き換えよ」
トニーは、テーブルの上にある髪の毛を掴んで床に投げ捨てた。
「傷んでボロボロの金髪なんか、何の価値もないんだよ」
そう言って、彼はポケットから取り出したコインをユリアに投げつけ、食堂から出て行く。
アンナはコインを拾い上げてユリアに手渡し、代わりにナイフを受け取ると、こちらへ戻ってきた。
ユリアは椅子に座り、スープの残りを口へと運ぶ。
先程まで近くに座っていた子供達は別のテーブルに移り、彼女を遠巻きにしている。
私は居ても立ってもいられない気持ちになり、ユリアのところへ向かおうとしたが、アンナに引きとめられた。
「待って、サラ。あれを見て」
アンナの視線を追うと、痩せっぽちのソーニャがユリア様に近付いていくところだった。
彼女はユリアの隣に腰掛け、手に持っていたパンをちぎり、ユリアの方へと差し出す。
一言も発していないのに、「私はユリアの味方だ」と全身で訴えかけているような気がした。
どうか拒絶しないで。
私は祈るような気持ちでユリアの反応を待った。
しばらくしてから、ユリアは黙ってパンを受け取り、口に入れる。
ソーニャが嬉しそうな様子ではにかんだ。
力で争わず、かといって従うわけでもない別の道を、ユリアとソーニャは切り開こうとしているのかもしれない。
「ねぇアンナ、私にはあの二人が、知恵と勇気を兼ね備えた女神みたいに見えるわ」
私がそう語りかけると、アンナは少し考えてから
「そうね。ナイフを握りしめた髪の短い女神と、パンを分け与える痩せっぽちの女神っていうのも、悪くないわね」
と答えた。