ソドムとゴモラ
ご主人様が死んだ。
彼女が埋葬されるところを、私はアンナとラルフと共に、少し離れた丘の上から見守った。
掘り返された穴の中へ、ゆっくりと棺が下ろされていく。
遠目に、誰かが崩れ落ちるように地面へ膝をつく姿が見えた。
ご主人様の死後、私は初めて彼女の名前を知った。
スカーレット。
それは、色を表す言葉でもある。
全てを焼き尽くす炎のような色。
あるいは、夕暮れ時の空を染め上げる色。
スカーレットという色からは、そのような印象を受ける。
だが、どちらも生前のご主人様には似つかわしくないような気がした。
一つだけ名前の通りだったのは、死に際のドレスの色だけだ。
いつもは濃紺や黒などの暗い色合いを好むスカーレット様が、その日だけは純白のドレスを身につけていたらしい。
そして、晩餐会からの帰り道で、何者かに襲われた。
現場には、ご自身の血で朱に染まったドレスを身にまとったスカーレット様と、護衛達の変わり果てた姿があったそうだ。
数日前には、スカーレット様の妹であるソフィア様の、盛大な結婚式が挙げられたばかりだというのに。
涼しい風が季節の変わり目を告げる頃、ソフィア様は結婚した。
厳かな挙式に参列できたのは親族の方々だけだったが、その後に開かれた祝いの宴には、たくさんの人々が駆けつけた。
招待客が多かったため、両家の使用人達に加えて私とアンナも手伝いに駆り出された。
広々とした庭で催されたガーデンパーティーは天候にも恵まれ、美しく優しいソフィア様の結婚を、その場にいる誰もが祝福しているかのように思えた。
事実、そうだったのだろう。
純粋無垢なソフィア様を嫌う人などいない。
招待客は皆、婚姻によってソフィア様がスカーレット様の支配下から逃れられることを、心底喜んでいた。
聖女のように崇められるソフィア様と、悪女と名高いスカーレット様。
それが人々の共通認識だった。
全ての悪意をその身に引き受けて、スカーレット様はこの世を去った。
有り余る資産と強大な権力を持ち、思いのままに人々を操りながらも、スカーレット様は常に孤独だったのではないだろうか。
そんなことを考えて、私は胸が締めつけられるような気持ちになった。
「二人とも泣かないのね」
私が涙をこらえながらアンナとラルフに向かって言うと
「土を詰められた棺を見ながら泣くなんて、馬鹿げているからな」
とラルフが無表情で答える。
「土? 何を言っているの?」
眉をひそめて尋ねる私に
「あの棺に入っているのは、たぶん遺体袋に詰めた土か何かだ。スカーレットは生きている。その証拠に、あの女の専属メイドをしていた俺の妹から『遠方のお屋敷で新しい仕事が決まった』と連絡があった。詳しい場所を聞いたら、以前ポルクスとルドルフが身を隠していた田舎の屋敷と所在地が一致したんだ。他の専属メイドや執事も一緒に雇われたらしい」
とラルフが答える。
「どういうこと?」
私はラルフの話だけでは理解できず、アンナに視線を移して助けを求めた。
「スカーレット様は、ご自身が亡くなったように見せかけて、昔ポルクスが住んでいた屋敷に身を隠しているということよ」
アンナの説明に、私は異議を唱える。
「でも、スカーレット様は暴漢に襲われて……ドレスを血に染めて亡くなっていたんでしょう?」
「そういう話になっているわね」
「嘘だって言うの? だけど、目撃者がいたからそういう話が広まっているんじゃないの?」
「偽りの出来事をあたかも真実であるかのように信じ込ませることは、権力者にとってそれほど難しいことではないのよ。『スカーレット様の遺体をこの目で見た』という人物を探し出そうとしても、永遠に見つからないでしょうね」
私は、馬鹿みたいに口をあんぐりと開けたまま、アンナの話を頭の中で反芻した。
しばらく考えてみたが、スカーレット様がそんなことをする理由が分からずに
「……どうしてそんなことを?」
と私は尋ねた。
「あの女は、多くの人間に恨まれているからな。握っている弱みがあればあるほど、足元をすくわれる危険性も増す。最後の計画に着手する前に、邪魔をされないよう先手を打ったんだろう。スカーレットという憎悪の対象がいなくなれば、今後の計画に水を差される心配はなくなるだろう?」
ラルフの説明に、私は新たな質問を重ねる。
「今後の計画って……スカーレット様は一体これから何をしようとしているの?」
するとアンナが、やわらかな笑みを浮かべながら答えた。
「神父がスカーレット様からの遺言を預かっていると言っていたから、詳しいことはそこに書かれているはずよ。さあ、無事に埋葬が済んだことを確認できたことだし、教会に戻って次の指示を仰ぎましょう」
私は何がなんだか分からないまま、二人と共に神父の待つ教会へと向かった。
スカーレット様の遺言には、貧民街の取り壊しと再建の計画が大まかに記されていた。
そして最後に『細かな指示については、その都度追って連絡する』とあり、それを目にしたラルフは大きなため息をついた。
スカーレット様は生きている。
これからも私達の主人として、存在し続けるのだ。
それは私にとって、とても喜ばしいことだった。
「嬉しそうね」
アンナに言われて、私は力強く答える。
「嬉しいに決まってるわ! 私ね、スカーレット様のことが好きよ。たくさんの人が彼女のことを嫌っても、憎んでも、私は大好きだわ。だって、あの人のおかげで私は……私は今、とても幸せだもの」
「親友のアンナがいて、父親みたいな神父がいて、母親みたいなキャロルがいてくれる。それから……大切な仲間のラルフもね。それに、孤児院の子供達のことも、凄く大事よ。時々腹の立つこともあるけれど、家族みたいに思ってる」
何もかも失った私に、スカーレット様がくれたもの。
それは、希望だ。
スカーレットという色が表すもの。
それはたぶん、全てを燃やし尽くす激しい炎ではなく。
胸を締めつけるような哀しい夕暮れの空でもなく。
それはきっと、暗闇を仄かに照らすランプの灯だ。
凍えた体に温もりを与える、暖炉の火だ。
スカーレットという名は、彼女にこそ相応しい。
心から、そう思った。
貧民街の取り壊しは、住民達の手によって行われた。
私達が過去に使用人として仕えた名家の人々が出資して、貧民街の人々を雇い、街の解体と再建が進められたのだ。
数年後、かつての貧民街は交易や観光の拠点として生まれ変わった。
この街には、様々な欲望を満たす施設がそろっている。
賭博場や闘技場、劇場に遊興施設、それから各地の料理を提供する飲食店や酒場などが立ち並び、数ある宿屋はそれぞれに趣向を凝らし、集客に余念がない。
そして、街の外れにある教会と孤児院のすぐ近くには、学院が創設された。
この学院は、老若男女を問わず、学ぶ意欲のある者ならば誰でも授業を受けることができた。
学院長となった神父の元で、アンナとラルフが中心となって指導している。
生徒だったソーニャやトニーも、今では読み書きや計算を教える先生だ。
私とキャロルは孤児院の運営を任され、忙しくも充実した日々を過ごしている。
そんなある日、高貴な雰囲気を漂わせた小柄な男性が街に現れた。
彼は護衛と共に街の隅々まで見てまわり、最後に私の働いている孤児院へとやってきた。
短く切り揃えられた艶やかな黒髪。
切れ長の美しい瞳。
男性の装いではあったが、間違いない。
「スカーレット様ーー」
と口走る私に、彼女は口の端をほんの少しだけ上げて微笑んだ。
「サラ、二度とその名を口にしないように。さもないと、地獄を見てもらうことになるわ」
彼女の言葉に、私は何度も頷いた。
スカーレット様は孤児院を一通り見てまわると、最後に裏庭の花壇へと向かった。
彼女は長い間、そこに咲く色とりどりの花を眺めていた。
「綺麗ね」
スカーレット様が、独り言のように呟く。
ふと顔を上げると、教会の裏にある家の窓から、ラルフがこちらを見ていた。
私が彼に向かって大きく手を振るのを見て、スカーレット様はラルフの方へと視線を動かす。
ラルフも、スカーレット様の方を見た。
二人が、無言で見つめ合う。
それは、これまでに私が見たものの中で、最も美しい情景だった。
神様、もしもあなたがどこかに存在するのなら。
どうか、願いを叶えてもらえませんか?
救って下さい。
誰かのために自分を犠牲にして生きる人を。
幸せにして下さい。
他人の心配ばかりして自分を蔑ろにする人を。
でも、あなたがどこにも存在しないと言うのなら。
存在していたとしても、あなたには何も出来ないと言うのなら。
自分で叶えます。
まずは目の前にいるこの二人が、心から笑い合える日が来るように。
出来る限りのことを、したいと思います。




