ランプの燃料
「お待ち下さい、ルイス様!」
私の掛け声も虚しく、ルイス様は勢いよくお庭の茂みの中へと突っ込んでいく。
ああ、また泥だらけになるわ。
植え込みの木の枝に引っ掛けて、お召し物も破れてしまうかもしれない。
そうなったら、またメイド長に叱られる。
私は考えただけで憂鬱な気持ちになった。
「サラ」
背後から呼びかけられて振り向くと、アンナが小さなバスケットを手にして立っている。
「ねぇアンナ、私もう限界よ。どうして子供って言うことを聞かないのかしら。ユリア様にも手を焼いたけれど、ルイス様はそれ以上だわ。やって欲しいことは一切やらないくせに、やめて欲しいことばかりするんだもの。本当に嫌になっちゃう」
愚痴をこぼす私に、アンナが尋ねる。
「自分の子供時代を思い出してごらんなさいよ。きっと似たようなものだったはずよ。それとも、サラは素晴らしく聞き分けの良い子供だったのかしら?」
思い返してみると、私も悪戯をしたり言いつけを守らなかったりして、怒られてばかりいた気がする。
「……そうね、似たようなものだったかもしれないわ」
私がバツの悪い顔をして認めると、アンナは可笑しそうに笑った。
「あなたは素直ね。それじゃあ、良いことを教えてあげる。標的の家庭に潜り込んで一番最初にするべきことは、その家の料理人と仲良くすることよ。食いしん坊の子供がいる家なら、最重要事項と言ってもいいわ」
アンナはそう言うと、バスケットの中からふかふかのパンを取り出して
「料理人のグロリアが焼きたての美味しいパンをお裾分けしてくれたの。エリス様から休憩時間をいただいたから、サラも一緒に食べない?」
と大きな声を出した。
すると、少し離れた場所から茂みを掻き分けてくる音が近付いてきて、ルイス様がひょっこり顔を見せる。
「僕も食べたいな。パンにつけるジャムとバターは持ってきた?」
無邪気な笑みを浮かべるルイス様に、アンナが微笑みかける。
「もちろん、両方ともございますよ。召し上がったら、サラの言うことを聞いてお屋敷に戻って下さいね」
頷くルイス様の両手を濡れタオルで拭くと、アンナはパンにジャムを塗り始めた。
「エリス姉さんが羨ましいや。アンナが僕のお世話係だったら良かったのに」
私は、ルイス様の発言に気分を害しながらも平静を装い、心の中で「私だって、あなたなんかよりエリス様の担当になりたかったわよ」と毒づいた。
アンナと私は、「ご主人様」と呼ばれる雇い主の指示で、このお屋敷にやってきた。
アンナはエリス様という御令嬢の教育係を、そして私は五歳になるルイス様のお世話係を担当している。
二人は母親が異なる姉弟で、年齢も十歳以上離れていた。
私達の目的は、この御一家の弱みを握り、ご主人様に報告することだ。
この話を持ちかけられた時、私はアンナに
「そんなに都合よく標的のお屋敷に潜り込めるもの?」
と尋ねた。
「元々お屋敷でエリス様の教育係をしていた者には、金貨一袋で言うことを聞いてもらったわ。田舎に住む親が病に倒れたことにしてもらったの。教育係がお暇を願い出たところへ、『ご主人様』が人伝に私達を紹介したというわけ」
アンナの答えを聞いて、私はますますご主人様の正体が気になったが、その話になるとアンナはいつも口を閉ざしてしまうのだった。
エリス様の教育係と入れ替わる時に比べて、ルイス様のお世話係になるのは容易かった。
彼の担当になった者は次々に辞めてしまうので、お世話係は常に募集中だったからだ。
亡くなった前妻のお子様であるエリス様と、今の奥様から生まれたルイス様とでは、何もかもが正反対だった。
可憐で心優しいエリス様はお花が大好きで、お庭には珍しい植物がたくさんある。
しかし、粗野で粗暴なルイス様がお庭を駆け回るため、草花はしょっちゅう踏みにじられ、そのたびにエリス様は悲しそうな顔をしていた。
ルイス様は食事のマナーも最悪だった。
まだ幼いとはいえ、食事中に立ち上がったり椅子の背もたれに寄りかかって天井を見上げたりと、とにかく落ち着きがない。
食べこぼしも多いので、お食事が終わった後のルイス様のお席は、テーブルも椅子も床も食べカスまみれだ。
けれども、誰も何も言わない。
旦那様は子供達に無関心だったし、奥様はルイス様を溺愛していて、躾をする気など全くないようだった。
お行儀にうるさいアンナも、ルイス様に対しては一切口を出そうとしなかったので
「ユリア様の時は旦那様と奥様に抗議したのに、今回は何も言わないのね」
と私が言うと、アンナは
「この御一家の弱みを握るまでは、大人しくしておかないとね」
と言って微笑んだ。
しかし、アンナはルイス様のお行儀の悪さがずっと気になっていたようだ。
ある晩、旦那様と奥様がお出かけになられて、夕食の席に着いたのは子供達だけ、という日があった。
食事中、ルイス様はいつものようにふざけながらフォークやスプーンをクルクル回して遊んでいた。
そのうちにスプーンがするりと指をすり抜け、エリス様の方まで飛んでいってしまった。
慌てて私が拾いに行こうとすると、エリス様のすぐ側にいたアンナがスプーンを拾い上げ、ルイス様を見てニッコリ笑う。
「ルイス様、マナーという言葉を耳にしたことはございますか?」
アンナの問いかけに、ルイス様が無邪気に答える。
「あるよ。でもお母様からは、堅苦しい礼儀作法なんて気にせず、食事を楽しみなさいって言われてる」
「そうですね。確かに、堅苦しい礼儀作法という意味でしたら、ルイス様にはまだ必要ないかもしれません。ただ、私は『マナーとは、同席する人々がお互いに気持ちよく過ごすための約束事』ではないかと考えております。ひとことで言い換えるならば、『思いやり』ということですね」
アンナは話しながらルイス様に近付き、目の前まで行くと膝を折って彼と眼線を合わせる。
「ルイス様、テーブルにお腹をつけるようにして、背筋を伸ばしてみましょう」
アンナの声かけに、ルイス様は意外なほど素直に従った。
使用人から新しいスプーンを受け取ったアンナは、ルイス様に手渡しながら
「正しい姿勢でお食事をしますと、お料理をこぼすことなく召し上がれますよ」
と言って微笑む。
ルイス様はスプーンを手にすると、残りの料理をほとんどこぼさずに召しがった。
「素晴らしいですね」
アンナに褒められたルイス様が、得意げな顔で胸を張る。
微笑ましい光景に、思わず私の口元もほころんだ。
ふとエリス様の方へ目をやると、彼女はじっとルイス様のことを見つめている。
射るような目には、敵意すらあるように感じられた。
普段とは違う様子のエリス様に戸惑っていると、彼女は私の視線に気付いたようで、こちらに顔を向ける。そして、いつものように優しい笑みを浮かべた。
さっきのは、きっと気のせいね。
そうして私は、先ほどの違和感を胸の奥へとしまいこんだ。
「あなたって魔法使いみたいね」
アンナの部屋で二人きりになった時にそう告げると、彼女は部屋にあるランプの火を見つめながら
「さっきのルイス様とのやり取りのこと? あれは、彼の心に燃料があったから上手くいっただけよ」
と言って笑う。
「燃料?」
聞き返す私に、アンナが説明する。
「ランプの中に燃料が無ければ、火は灯らないでしょう? それと同じで、相手の心に他者の意見を受け止めようとする気持ちが無ければ、私の言葉は響かないわ」
そう言うと、アンナは私の胸元を指差しながら話を続けた。
「サラを仲間にしようと決めたのは、あなたの心に私の言葉が届いたからよ。私がユリアの両親に進言した時、あなただけが私の言葉を真剣に受け止め、ユリアのために力を尽くすと伝えに来てくれた。そして宣言通り、あなたは最後までユリアのそばにいて彼女を支えたわ。だから私、サラのことをとても信頼しているのよ」
「やめてよ。私はそんなに立派な人間じゃないわ」
と否定する私に、アンナが古びたコインを差し出す。
「親愛の証よ。あなたにもあげるわ」
私はコインを受け取りながら
「ユリア様の心にも、アンナの言葉は届いていたんじゃないかしら」
と呟いた。
するとアンナが
「だから、彼女にもコインを渡したのよ」
と温かな声で答える。
古びて輝きを失っているはずのコインは、ランプの灯りに照らされて、まるで光を放っているかのように美しく見えた。