古びたコイン
私は、あるお屋敷でユリア様という女の子のお世話をしている。
ユリア様は、ひとことで言うと小悪魔だ。
ゆるくカールのかかった金髪に、エメラルドグリーンの瞳をした彼女は、天使のように愛らしい見た目をしている。
けれども、その実態は周囲を振り回して疲弊させる、小さな悪魔なのである。
私はユリア様が小さな頃からお世話を担当しているのだが、彼女はとにかく寝ない子だった。
夜は二時間おきに目を覚まし、大きな声で泣き叫ぶ。
そのたびに抱っこしてあやすのだが、ようやく寝たと思ってベビーベッドに置くと、スイッチが入ったかのようにパチリと目を開け、再び泣き声を上げる。
その時の絶望といったら……あの頃のことは思い出したくもない。
また、ユリア様は食が細く、お体も弱かった。
体調の優れない日には少量のミルクを口にするのがやっとで、せっかく飲み干したミルクでさえ、すぐに吐き戻してしまうことも多かった。
加えて彼女はしょっちゅう熱を出し、私はその看病で眠れぬ夜を何度も過ごした。
旦那様と奥様は、そんなユリア様を真綿で包むように大切に育てた。
欲しがるものは何でも買い与え、どんな願いでも聞き入れた。
そうしてユリア様は、傲慢で思いやりが無く、わがままで意地悪な御令嬢へと成長していった。
しかし、ユリア様が六歳になった時に転機が訪れた。
一般教養や礼儀作法を身につけるために、教育係が雇われたのである。
教育係に任命されたのはアンナという女性で、凛とした美しい顔立ちをしていた。
彼女は冷静沈着で、ユリア様の無理難題を右から左へ受け流し、反抗的な態度にも怯むことなく、根気よくユリア様に向き合い続けた。
アンナは謎の多い女性でもあった。他の使用人とは寝食を別にしていたし、人を寄せ付けないオーラを放っていたから、彼女と親しくする者は一人もいなかった。
コックのリチャードは噂話が大好きで、彼の話によると
「アンナは父親を亡くしてから家が没落したそうだ。婚約者にも捨てられた、可哀想な女らしいぞ」
ということだったが、真偽のほどは定かではない。
そんなある日、食事の時間にちょっとした事件が起きた。
「こんなもの、食べられないわ!」
ユリア様は、嫌いな野菜の入ったメインディッシュの皿を見て癇癪を起こした。
「どうしてユリアの嫌いなものを入れるの? どうせあなたの仕業でしょう、アンナ! あなたはいつも、私の嫌がることばかりする。私のやることなすこと、いちいち口を出してくるし、とても意地悪で嫌な人だわ! お父様お母様、こんな人は早くクビにしてよ!」
私は内心「意地悪なのはどっちよ」と思っていた。
ユリア様は、ちょっとでも使用人が気に入らないことをすると、ご自分で物を壊してその罪を使用人になすりつけ、旦那様に告げ口をする。
他にも、悪口を言われたとか物を盗まれたなどと有りもしない出来事をでっち上げて、何人もの使用人をクビにしてきたのだ。
今この屋敷に残っているのは、私のように従順で忍耐強い者しかいない。
正直な話、ユリア様と正面から向き合うアンナのような人間が、今日までこの屋敷にいられたのは奇跡に近い。
「嫌いなものを食べさせるのは可哀想だわ」
そう言いながら、奥様が憂いを含んだ瞳で旦那様を見る。
「そうだな、コックに作り直してもらおう」
旦那様も、奥様に同意する。
その時、アンナが静かに口を開いた。
「旦那様と奥様、お二人はユリア様にどんな大人になって欲しいですか?」
アンナの問いかけに旦那様は眉をひそめ、奥様は訝しげな表情を浮かべる。
「私は、ユリア様に健康でいて欲しいです。そのために、バランスの良いお食事を提案しております。また、周りの方々から愛される人になって欲しいです。ですから、言葉遣いや振る舞いにつきましても、時に厳しい指摘を致します。それはユリア様を貶めるためではありません。ユリア様の将来を案じているからです」
アンナの言葉に、私は強く心を動かされた。
この屋敷にいる者の中で、最も真剣にユリア様のことを考え、深い愛情を注いでいるのは、アンナなのではないだろうか。そんな風にさえ思えた。
私は、今までに一度でもユリア様のために何かをしたことがあっただろうか。
寝不足になりながらユリア様のお世話をしてきたのも、理不尽な要求を受け入れて黙って耐えてきたのも、ユリア様のためではない。全ては、自分が仕事を失わないためだ。
それが間違っているとは思わない。
けれども、目の前にいるアンナは、ユリア様の未来のために、失業する覚悟で旦那様と奥様に進言している。
私は、アンナの言葉によって何かが変わるのではないかと期待した。
しかし、そう上手く事は運ばなかった。
アンナの発言に憤慨した旦那様は
「君はユリアの教育係にふさわしくない。荷物をまとめて出て行ってくれ」
と言い、アンナを退室させた。
主人に逆らうなど、使用人にあるまじき行為だ。
それは分かっている。
だが、アンナ以上に教育係としてふさわしい人物など、他にはいないような気がした。
ユリア様がお食事を済ませた後、休憩時間をいただいた私は、迷わずアンナの部屋へと向かった。
アンナは既に荷造りをほとんど済ませており、私が顔を出すと少し驚いたような表情になる。
それもそのはずだ。私とアンナは、これまで挨拶の言葉くらいしか交わしたことがなかったのだから。
「アンナ……私、さっきのあなたの話を聞いて反省したの。私は今まで自分のことしか考えてこなかった。これからは、ユリア様のために何が出来るのかを考えていきたい」
親しくもない私から突然こんなことを言われて、アンナはきっと戸惑っているだろう。
私は急に恥ずかしくなり
「変なことを言ってごめんなさい」
と言って立ち去ろうとした。
身を翻すとドアのところにユリア様が立っていて、私は肝を冷やした。
ユリア様は私には一瞥もくれず、アンナに向かって
「謝罪するなら、私の教育係を続けられるよう、お父様に頼んであげてもいいけど」
と言った。
アンナは
「いいえ、謝罪はしません」
と答え、荷物の詰まったトランクを重そうに持ち上げると、一礼をして歩き出す。
そしてユリア様とすれ違う際に一旦足を止め
「ユリア様、人生は時に困難です。暗闇に呑み込まれそうになる夜もあるでしょう。そんな時には、これを握りしめて下さい」
アンナはそう言うと、ポケットから古びたコインを取り出してユリア様に手渡した。
「嫌だわ。薄汚いコインね」
ユリア様が顔をしかめる。
「このコインは親愛の証です。私が大切に想う方にだけお渡ししています。どこにいても、私はあなたの幸せを願っていますよ」
話し終えたアンナは再び歩き出し、屋敷を後にした。
ユリア様は、手のひらに載せられたコインをいつまでも見つめていた。
アンナの言葉が響いたのか、ユリア様はあまり癇癪を起こさなくなり、意地悪な言動も減っていった。
私はユリア様の好ましい変化を、とても嬉しく思った。
穏やかな日々が続くかに思われたが、密告により旦那様の悪事が暴かれ、ユリア様の人生は一変することになる。
貿易業を営む傍ら、人身売買に関与していたことが発覚し、旦那様は牢獄に入れられてしまった。
奥様はショックで精神を病み、親族にも見放され、行き場を失ったユリア様は孤児院に引き取られることになった。
もちろん、お屋敷の使用人は全員解雇だ。
私はユリア様のことが気になって、最後の一人になるまで屋敷に残った。
孤児院からお迎えが来る日、私も荷物をまとめてユリア様のところへご挨拶に行った。
これでユリア様とはお別れだ。
広い屋敷の中で、ぽつんと一人佇むユリア様を見た時、これまでの思い出が一気に蘇る。
初めて会った時、小さなユリア様が私の指を握りしめてくれたこと。
何度も夜泣きに困らされたけれど、ふとした瞬間に天使のような笑顔を見せてくれたこと。
わがままを言いながら、意地悪をしながら、もしかしたら私達の愛情を試していたのかもしれない。
欲しい物を買ってもらうことより、何でも望みを叶えてもらうことより、ユリア様は本気で向き合ってくれる相手を求めていたのかもしれない。
だって、今ユリア様が固く握りしめている手の中には、きっとアンナからもらったあの古びたコインがあるはずだから。
来客を告げる呼び鈴が鳴り、私は我に帰って玄関へと急ぐ。
孤児院から迎えにきた男女は、どちらも帽子を目深にかぶっていて、顔がよく見えなかった。
ユリア様を呼びに行こうとすると、彼女は既に背後に立っていた。
玄関に準備しておいたユリア様の荷物を、迎えの男性が持ち上げて運ぶ。
その後をユリア様が大人しくついていく。
「ユリア様!」
思わず呼びかけてしまったけれど、言葉が続かなかった。
ユリア様は、こちらを振り返ることなく行ってしまった。
もう一人の迎えの女性に頭を下げ、私もお屋敷を後にしようとすると
「サラ」
と名前を呼ばれた。
私が驚いて迎えの女性を見ると、彼女は帽子を取って
「久しぶりね」
と言った。
「アンナ……」
目を丸くしている私に、アンナが微笑みかける。
「ユリアが振り向かなかったのはね、あなたに涙を見られたくなかったからよ」
アンナの言葉に、必死でこらえていた涙がこぼれ落ちる。
私の背中を優しくさするアンナに、私は尋ねた。
「今は孤児院で働いているの?」
「……サラ、もしまだ新しい仕事が見つかっていないなら、私達と一緒に働かない?」
まだ新しい勤め先を見つけられずにいた私にとって、アンナの申し出はとてもありがたいものだった。
私は二つ返事で了承すると、早速アンナと一緒に雇い主の元へ挨拶しに行くことになった。
表に出た時には、もうユリア様と迎えの男性の姿はなく、先に孤児院へ向かったようだった。
アンナに連れて行かれた先は、貧民街にある教会だった。孤児院が併設されているそうで、隣にある大きな建物からは子供達の声が聞こえてくる。
教会の奥にある小部屋に案内され、アンナが扉をノックする。中から現れた神父様は私達を招き入れ、ソファに座っている女性と私を引き合わせた。
彼女は見るからに高貴な身分だと思われる女性で、すぐ側には護衛らしき人物が待機している。
「あなたがサラね。仕事内容は聞いていると思うけれど、裏切ったら地獄を見てもらうわよ」
そう言うと、高貴な女性は妖艶な笑みを浮かべた。
孤児院で子供のお世話をする仕事だとばかり思っていたが、なんだか様子がおかしい。
私は助けを求めるようにアンナの顔を見たが、彼女は
「サラの人柄は保証します。裏切ることはありません」
と言い切って、話を進めてしまう。
「サラ、あなたの働きに期待しているわ」
そう言って、高貴な女性は優雅な仕草でソファから立ち上がると、護衛を従えて部屋を後にした。
「……どういうこと? 孤児院の仕事をするはずじゃなかったの?」
私が問い詰めると、アンナは落ち着いた声で話し始めた。
「私達の主な仕事は、標的の家庭に入り込んで情報を集めることよ。一人では任務の遂行が難しい場面もあるから、サラには一緒に潜入する協力者になってもらいたいの」
「それじゃあ、旦那様の悪事を密告したのは……」
私が言い終わらない内に、アンナが続きを引き取る。
「私達の仲間よ。色々と調べていたら犯罪に関わっていることが分かったから、雇い主に報告したの」
「雇い主って、さっきの方よね? あの方は何者なの?」
私の問いに、アンナは言葉を濁す。
「知る必要はないわ。今後、あの方のことは『ご主人様』とお呼びしてね」
「悪いけど、そんな怪しい仕事には協力出来ない。この話は無かったことにしてちょうだい」
私はそう言って部屋を出ようとしたが、扉の前には神父様が立ちはだかっている。
「もう後戻りは出来ないわ。それでも断るというなら、ご主人様からの罰を覚悟しなければいけない」
アンナの言葉に、私は震え上がった。
「そんな……」
私は、軽はずみな気持ちでアンナの誘いに乗ってしまったことを悔やんだ。
そんな私を安心させるように、アンナが優しい声を出す。
「悪いようにはしないから安心して」
そしてアンナの言葉通り、私の人生は悪いようにはならなかった。
むしろ、良い方向へと進んでいくことになる。