93話
大正12年、関東大震災の後始末のために東京から神戸へと避難してきた人々の中に一人の男性がいた。名を鈴木文太郎という人で、後に作家となって小説を書き、また映画監督としても数々の作品を残した、言わば映画界の大立者である。その彼が たまたま神戸にいた頃のことである。彼は震災の混乱の中で この『ハッシュドビーフ』と出会い、そしてその味に心を奪われた。それ以来、彼もすっかりこの料理の魅力に取り憑かれてしまい、やがて彼は自ら調理をするようになって、これをメニューの中に加えたのだと言う。
『ハッシュドビーフ』はこうして神戸で誕生した。
それが日本中に広まるまでになったのが昭和4年頃のことであったという。
そしてこの『ハッシュドビーフ』は『ハッシュドポーク』とも呼ばれ、その名称で今も残っている店があるくらいである。しかし現在では牛肉だけでなく鶏肉や豚肉を使った『ハッシュドビーフ』もあり、それとは別に洋風の肉じゃがのようなものを『ハッシュドポテト』と呼んだりしているところもある。また、家庭によってはカレールーを入れたものを作り、さらにそこに生卵を落とし、半熟の状態で食べさせるという人もいるようである。
いずれにしても、今ではこの『ハッシュドビーフ』は『ハヤシライス』と呼ばれているが、これも時代と共にその姿を変えてきているということであるようだ。
さて、この『ハッシュドビーフ』と『ハヤシライス』の違いについてだが、簡単に言ってしまえば『ハッシュドビーフ』の方が少しだけ上等なもので、それに対して『ハヤシライス』は庶民的な食べ物ということになる。要するに、この『ハッシュドビーフ』は高級志向のレストランなどではなく、どちらかと言えば、家族が団らんしながら食べるような庶民的でアットホームな雰囲気を持った料理だということである。
その証拠と言っては何であるが、『ハッシュドビーフ』が あまり格式高いものというイメージを持っていないせいか、あるいは、この国の食文化が欧米のものを取り入れたために庶民的なものになっていったためか、この『ハッシュドビーフ』を お洒落で豪華な料理として捉えている人もいて、その代表的なものとして、この『ハッシュドビーフ』の発祥の店として名高いレストラン『トラットリア アルシメンティ』の店主で料理長であったマリオ・トレヴィ氏の名前が挙げられる。
彼はナポリ出身のイタリア人であったが故あって来日し、神戸に居を構えることとなった人である。彼の店は今でこそ全国区の有名チェーン店にまでなったイタリアン・ファミリーレストランとして繁盛していたが、当時は まだ さほどの人気もなく閑古鳥が鳴いていた時期でもあったのだそうだ。
そんな折に、彼はこの店の料理の定番である この『ハッシュドビーフ』に出会った。
そして、その味に惚れ込み、これこそが 自分が作りたいと思っていた理想の『料理』そのものだと考えた。そうして、その当時、日本では珍しかった本格的な洋食を出す料理店を開くことにした。そしてその店名は、彼自身の故郷であった『イタリアの南の方の地方にある村の名』にちなんで『サルディーナ(Saldina)』と名付けられた。この『ハッシュドビーフ』は『サルディーナ』の代表的なメニューになり、瞬く間に人気メニューとなり、連日のように大勢の客で賑わったのだそうだ。
『サルディーナ』の料理の基本となったのはトマトと玉葱と赤ワインとバターと小麦粉を使って作るソースだったと言われている。
そして このソースを煮詰めて作ったものを『デミグラソース』と呼び、その『デミグラソース』にマッシュルームを加えたのが『サルディーナ風』であるとされているのだ。この『デミグラソース』とは、元々はトマトと玉ねぎとニンニクのすりおろしたものから作られるものであったのだが、今ではそれに牛乳とコンソメを加えて作られ、また、更にそこにチーズを加えることもあるということだ。そして『デミグラソース』には牛脂も加えているのだという。
そしてデミグラスの名前の由来は、これは元々フランス語だったものがいつの間にか英語になっていたもので、本来であれば そのまま『デミグレインソース』と呼ばれるべきものだったのだそうだ。
そして、この『デミグラスソース』には、この『ハッシュドビーフ』以外にもハンバーグなどにもかけて食べられるようにもなっているのだ。そして、この『デミグラスソース』には また、別の呼び名もある。
それは『ブラウンソース』と呼ばれるものであり、そして『ハッシュドビーフ』は『ビフテキ』とも呼ばれているのである。
さて、では『デミグラスソース』には『フォン』が使われているという話はしたが、その『フォン』というのはどういうものだったのかということに触れなければなるまい。『フォン』はドイツ語で言うところの『水』(Horn)のことである。要するに『フォン』は『スープ』を意味するドイツ語であり、この『デミグラソース』を作る際には『デミグレーン(Demigrane)』と呼ばれている。
そしてこの『デミグラソース』のことをフランスでは しばしば『ポワールソース』と呼んでいるのだそうだ。
ところで、フランス料理における肉や魚などの料理を『ムール貝』や『フォアグラ』のような『ムール』という言い方をしたり、また野菜やきのこなどを煮込んだ『ブイヤベース』などのように言うことがあるが、この中の『ムール』という言いかたは『フォン(fon)』から来ているものである。
要するに『フォン』というのはもともとスープを意味していたものなので、それが料理名に使われるようになったということである。




