78話
さて 前置き『道徳感情論』で アリストテレスは『人間の本質的な性質は『善』である』という思想を説いたのだが、それに対して、その考え方を批判した人もいた。その人は、ソクラテスの親友であったプラトンで、彼は、アリストテレスの考えには『愛』という要素がないことを指摘し、それが欠けているということから、彼の『道徳感情論』を批判する立場を取った。
しかし……その批判に対するアリストテレスの対応は なかなかのもので、それを 簡単には退けないだけの説得力のある主張をしているのだ。
それは……『人間は愛ゆえに生き、愛のために生きるものである』という、まさに『愛の本質』というものを述べたものだった。その背景には やはり、彼が『プラトニック』であることが深く関係しているのだと思う。そして そのプラトニックな感情こそが
『正義』を貫けるのだと言った。その正義は……「愛」とは『他に対する愛』であって、「正義感」は『自己に対しての愛』なのだということを アリストテレスが述べたように、自分の中にある愛が正義を生みだすのだと言うこと。
それは まるで……『無償の愛』『博愛主義』というようなもので、どんな時でも他人を思いやり、慈しみの気持ちを忘れないということの表れで、それは すなわち……『人間の本質』そのものであり、そのことの証明は『正義』に求められるということだった。
アリストテレスは
『正義は 愛の実践』であり『倫理』の根底にあるものは『正義の探究』なのだと述べた。つまり 倫理学の目指すところは、この世の全ての理を知り尽くすことではないのだ。それでは あまりに単純過ぎるからである。本当の意味での 幸福や成功を手にするためには より複雑な思考能力と深い知識が必要で、それこそが人間にとって必要なものなのだ。
そして それを身につけるための方法は 一つしかない。それは 他人の意見を聞くことである。その人が言ったことを鵜呑みにするのではなく、その人の考え方を理解する必要があるわけです。
それは……学問だけではなく 芸術の分野でも同じことが言えるわけですね。優れた作品というのは そういうところから生まれるものだということが理解できるはずだろう。
それと同じ考え方が宗教にもあてはまるわけなのだ。要するに、それは……神様を信じることの先にあるものであり、それはつまり、信仰心を磨くことによって、その人の心の中に存在する愛が さらに増していくということになるのだ。
そこで その例としてあげられるのは……キリスト教の聖典の一つである新約聖書だ。聖書の中では、キリスト教信者が犯した罪を裁いている場面が何度も出てくる。そこには……こんな言葉がある。
罪を犯してはならない。あなたがたのうち多くの者は、自分は、キリストと共に死んでもいないし、生れてもいないと考える。なぜならば、わたしたちは、今、自分自身のことや、この世界のことなどについては、ほとんど何のことをも知らず、知り得る状態にはないのだから。
しかし、神の御言葉を知っている人は、すべての人に対して寛容でありなさい(ローマ5:1)
イエス・キリストの教えは『愛すること』について語られているのです。
だからこそ……私は この言葉が好きなんだ。
「人を憎んではならない」「人に厳しく接してはならない」
『愛をもって生きるべきである』……とね。
だから……君には、いつも優しくありたいと思っているんだ。
『アリストテレスの定義』は……『道徳性は自然発生的なものである』というものです。そして
『善悪の判断基準は 道徳的行為を行う主体となる個人の良心によるのではなく、客観的条件によって定められる』というふうに考えた。しかし……これは、あくまで『道徳感情論』において そうなるというだけであって、別の側面から見ると 必ずしもそうではないという考え方もある。それが『外在的善』と『内在的善』の違いである。『道徳感情論』では 道徳的な行動を起こすためには『正義の欲求』が必要であると述べていて、それは『神の意志に反したものではないことであり、そこには必ず『正しい動機』がなければならない』とした。しかし その一方で、『正義とは人間の中に存在するものであって、外面的に判断されるものである』ともしている。つまり『道徳感情論』は、道徳的な行いをするためには『道徳感情』が重要であるとし、正義を実現するためには『理性』が必要なのだと言った。
そして……アリストテレスの結論として導き出されたのが『善悪は相対的であり、その時々によって変わってしまうものである』ということ。しかし……この考えに対しては、反論する人たちがいたのだ。それは『善行によって救われる』という信仰を持っていた人達で、彼らは、その善行が『善なることの保証にはならない』と考えた。そこで その根拠となったものが『人間の行為は神の意志に反することがないが、それでもなお善であることもあれば、そうでないこともある』という考えである。
それは
『善と不善は両立しない』ということです。だから……『道徳感情論』においては『正義を実現するということは 善を成すことであり、正義の実現は、神の創造された世界に対する愛を実践することだ』という結論になっている。
しかし……これに対するアリストテレスは……こう言っている。
『善行によって得られる利益というものが確かにあった。例えば 他人に対する親切は 自分の財産を増やすことになるし、他人を助けることは 社会全体に貢献することになり、自分が幸福になるということである。』
『また、正義を実現することによって得たものはある。他人の喜びは自分の喜びでもあったから、満足感が得られる。それに 他人を助けているという事実そのものが、良いことなのである。なぜなら、それは自分にとっても益になることなのだから』……と。
それでは『正義の追求』に意味が無いかというと、そんなことはないらしい。何故なら……アリストテレスによれば、『正義を求めることで より高みに達することができて、それによって幸福を得る』ことができるからだそうだ。
つまり……正義を求めていれば、その人の心の中に『愛が生まれる』ということ。
そのことが……幸せにつながるってことですね。
それでは……今度は……キリスト教における倫理的な生き方とは何かということを もう少し詳しく見ていきましょうか。
キリスト教の教えの中には『善と悪』という概念があり、それは旧約聖書の中で語られた言葉である。この概念は『創世記』に書かれており、その内容は おおよそ次の通りだった。
第2章第12節 さあ、地のすべての獣、空のすべての鳥、地にあるすべてに生える草、あらゆる木の本をおおう茂みまでが、あなたの前に平伏しますように。そして、すべての野の動物、水のすべての魚のことごとく、あなたに逆らわぬようになるために。




