77話
一旦、日本史を閉じます。
歴史文学図書から『アリストテレス』を題材に展開します。
『アリストテレス』は、紀元前六世紀頃のギリシャの哲学者であり 自然科学・形而上学などの研究において多大な功績を残した人物です。
彼は、プラトンと共に二大ソクラテスの弟子として、古代ギリシャの三大思想家の筆頭として名を馳せた人物であり、その業績には枚挙の暇がありません。
『饗宴』は 有名な対話集であるが、その中で 彼は 人間の本質について語っている部分があるのだ。
『道徳感情論』の冒頭に引用した部分も そこの一節なのだ。その言葉から彼の考えを読み取ることが出来るのです。その言葉を、ここで紹介しましょう。
『道徳的な徳性は 人間の外にあって内在するものではない。人間は、自分自身の内なる道徳的基準によって、あるいは自己自身の欲求に従ってのみ生きるからである』要するに、人間が生きていくためには理性が必要だということを述べているのだね。この論理の根拠としては、人間は善く生きるべきであり その善き生を送ろうとする限り 善良な心が 自然に備わっているものだという考えから来ている。
つまり……理性とは、良心である。
人間は、欲望に忠実でなければならないので、欲の赴くままに行動する。その結果、罪を犯し『悪行』をするのだが、それが結果的に より一層 自分を苦しめることに繋がることもある。例えば、盗人の場合は、その盗んだ物を返さないでいる内に、それを必要とする別の人が出てきて困ることになり、結局は 自分が痛い目に遭うことになる。
そうならないためにも 良心的に生きようと思い始めるのだ。そのように考えることこそが 良心というものであって、それを 理性的な心『善心(もしくは正義心)と呼び変えれば良いのだろうと思う」というわけです。
さらに、その善心の中身については、次のようなことが言える。すなわち……それは、他者に対する慈しみの心である……
そうすると……道徳感情とは、『他を愛する能力』であるとも言えるだろう。
他人を愛したいという気持ちは『正義感』であり、他人の幸福を願う『利己主義』とは『愛』の性質が違う。
その区別を明確にすることは重要だと思います。
『倫理』の章でも述べたが、『正義感』とは『愛の理』のことであり、『利己主義』とは『愛の不実』のことだからね。
では……何故、アリストテレスが、そんなことを言うようになったのかと言えば、それは 彼独自の思想に理由があるからだ。それは
『魂の本源的な力に限界はなく、どんなことでも可能とする』という考え方にあるのだ。
それは
『自然の法則に逆らってまでも目的を追求することを可能にする意志の力』『愛という崇高な感情によって 人は その目的を果たすべく努力することができる』ということを指しているのだ。
それは……『神は 人間にとっての不可能を可能にする存在である』という意味にも取れるわけで、それは……つまり、キリスト教が言う『奇跡』のようなものも含んでいると考えることが出来るわけです。……さて、話は少し逸れてしまうが、実は、アリストテレスは ある一つのことを知っていたと言われているのだ。
それは……人間には必ず『運命を変える』可能性があるということをだ。その可能性が具体的に何なのかということは分からないけれど、確かに『そういう存在』はあるらしいのだ。それは 人間の持つ 可能性の力を『プラシノトス(潜在性)』という。そして その『プラシノトス』こそ、その人間の本質に最も近いもので
『人間の根源的な存在理由だ』と言う人もいるらしい。
このことについて、もっと詳しく説明してみよう。まず 人間は誰でも 生まれた時には 白紙の状態で、その人に『プラシノトノス(潜在性)』が備わっていることになるのだ。この『プラシノトノス』が成長することによって磨かれ、その人が歩む人生に影響してくるわけだ。しかし、その人の生き方や考え方次第で、それは……『プラシノボノトス(虚栄心・自尊心・傲慢・エゴイズムなど)』になり得るし、逆に……『プシトノトス(謙遜・博愛・忍耐・貞操など)』にもなりうるのだ。要するに、この『プラシノボ』こそが、その人が生きている間に獲得してきたものの結果であり『人間の評価そのもの』になるのだね。『プラシノボ』は……その人の内面を形作るものなのであって、それを変えることは不可能なのだと。
だから、自分の人生の中で起こる出来事は全て『必然の出来事なのだ』と、彼は考えているわけなのだ。
『必然的な出会い』と『偶然の出会い』の違いは分かるかな?
それは……それは 同じようで、全然違うことだ。
それは どういう意味かと申せば……。それは、たとえばの話だが、君が何かしらの事件に巻き込まれたり、事故にあったりするとしよう。すると君は、そこで『偶然に出会うのだ』という言い方と『必然的に出会うのだ』という言葉が有るが、これは全くの正反対であると言えるのだ。
例えば……誰かが道端で倒れていたとしよう。そして たまたま そこに救急車がやって来たとしたら、それは完全に 偶然の出来事であり、誰のせいでもないが、それが救急隊員の仕事なので、彼らは、助けた人に対して感謝の気持ちを抱かないはずだ。しかし……その倒れている人が、自分の知っている人であったなら、当然の結果として、感謝の念を抱き 尊敬の意を表すことになるだろう。しかし その人と面識がなければ それはただ単に 目の前で起こった不思議な現象として捉えるだけであり、それ以上の感情を抱くことはない。要するに、そこで起こったことは……全て 神の思し召しであって、そこに何らかの作為を感じる者がいるとすれば、それは、神様ではなく、むしろ自分自身の心の中に、無意識下に存在する悪意から生まれてくるものだということになる。それは『神の意志に反していることであり、罰を受けるべきものである』というふうに考えられるのです。
つまり……そこには、神の意志があるということです。
しかし その意志が善い方向に向かうのか悪い方向に働くのかということも、これまた 人間の力によって左右されてしまうことなのです。
だから、もしも……自分が 善意から 行動を起こすことによって『プラシノボ』が その善き方向へと向かってくれれば、それは『善き人生』を歩むことにもなるだろうし、『最悪の人生を歩まされること』も防ぐことが出来るようになるのだ。だからこそ『良い人生』を送りたいと願うのであれば、常に自分を律することが必要になるのでしょう。
では、その方法とは……? それを知ることが出来さえすれば 人は幸せになれると思うのだが、どうだろうか。




