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歴史という名のファンタジー  作者: みなと劉
73/255

73話

このあと信忠は、まずは三河に入り、次いで遠江へと進み、十月十日には、浜松城に入場した。そして 十月二十一日になると、信忠は そのまま 駿河に向かって進撃し、途中にあった掛川城を落城させた。こうして、徳川氏は滅亡したのでした。またその後、家康の妻の督は出家させられて天竜寺に入れられたが、やがて彼女は死んだという。

『丹羽氏勝』について視点をあてていきましょう。

『丹羽氏勝』は、本能寺の変で織田信長が死ぬと、すぐに秀吉に接近して 織田家を滅ぼす手助けをしたらしい。

この背景には、彼の出自と、彼が仕えていた斎藤道三への忠誠があったと思われるのだが……。

ただ 秀吉と組んだのは、あくまで信忠に対抗するためで、信忠が死んで 信長の嫡子・万千代が後を継いだときには、すでに秀吉と決裂していた。信忠が生きている間は、信長の子を後継者にしようと考えてもいたようだ。

しかし 結局は、秀吉が織田家を滅ぼさざるを得なくなったので、信忠の家臣となって、信長の跡を継ぐことになった。

そして、十一月には上洛し、信忠と再会した。そのさいには、彼は京にいた もう一人の織田家当主である 次男の織田吉法師と対面したそうです。

このときは、信長の嫡男・信忠は、病気を理由に上京できなかった。

(本当は 病でも何でもなく、ただ秀吉を恐れていただけのことです。)そのため、信忠と信長の次男との間での面会となりました。

(ちなみに 信忠の子は三人いて、長男が奇妙丸、次男が奇忠丸です。)

そして 秀吉は この信忠の正室の千姫をもらい受け、信忠を人質として大坂城に住まわせた。

だがしかし 信忠としては、自分の子が跡を継いでくれるのであれば 人質など必要はなかったと思う。それに そもそも秀吉は 信忠にとって義父にあたるのだから、そんなことをする必要もなかったはずだ。

(なのに 信忠は、それをしなかった。つまり それは、秀吉が怖かったからなのだと思います。)

だから もしも 信忠と秀吉の間で戦が起きたとしたら、秀吉の方が 圧倒的優位に立ったに違いない。なぜなら 信長の子の信忠には、他に子供がいないからです。

(しかし実際には そうならなかったわけだけど……)

そして そうはならなかったかわりに 天正十八年八月四日の未明に、家康を先陣とする 東征軍が発せられた。これは 関東の諸大名の連合軍との合戦である。秀吉は、徳川家康が出陣することを予想していて、その留守を突くために兵を送ったらしい。(秀吉は このときには もう既に、徳川家康が裏切ると考えていたようでした。)

このとき、家康は 小田原城を包囲したものの、攻めあぐねている状態だったそうです。

一方 西の方面には 毛利輝元がいるが、彼はまだ 動かなかった。秀吉と 信長の三男・信孝とは仲が悪く、また信孝が 家康に味方するのではないかと恐れたためです。

このため、家康は、秀吉に対して、どうすればいいのか わからなかったようです。

ところが その家康の元に 九月二十六日に ある知らせが飛び込んできました。秀吉が、自ら率いる大軍を率いて、東海道を進んでいるという知らせだったのです。しかも 彼らは 途中で、伊勢や伊賀の諸将とも合流する計画だというのです。

(この当時 秀吉が率直な気持ちで 秀吉に従っているのは 柴田勝家と前田利家くらいのものでした。他の武将たちは、皆 秀吉のことを信用していなかった。)

しかし このとき 秀吉が向かっていた場所は 浜松方面ではなく、尾張の方面でした。信長の後を継いだ万千代こと信忠が、その本拠としていた 安土のある近江だったのです。

つまり秀吉が向かおうとしている先は、三河だった。三河に進軍して、そこで 信忠と戦うつもりだった。

これを知ったとき 家康は驚きました。家康が待っていた情報は、秀吉が すでに三河に入っていたということだけだったからだ。

『三河に入る。』というのは、単にそれだけの情報にすぎなかったので、まさか秀吉の本陣があるのが三河の方だなどと、誰が予測できるだろうか? 家康は 悩んだ末に 秀吉の誘いに応じることに決めた。そして 秀吉が尾張に入ってきたところで、彼らは激突したのだった。

しかし この戦いは、家康の敗北に終わります。

『我勝ちて先に攻む』と家康が言った通り、はじめは、秀吉の軍をかなり圧倒した。

しかし 戦いが進むうちに、秀吉軍の方が優勢になり、やがて家康軍は敗走します。(家康が退却するときも、秀吉軍は追撃して来ませんでした。)

その後 家康は 居城であった岡崎城に戻り、籠城して抗戦したが、九月二十九日に開城しました。こうして 徳川家は滅亡してしまった。家康が死ぬ前に残した辞世の言葉は有名ですね。

さて その後 家康の跡を継いだ三男の秀忠は、秀吉に対抗するべく 織田家の旧臣たちを糾合した。そして 家康が降伏した後 秀吉によって幽閉された徳川信康の救出を企んだりしていた。

『家康は秀吉を恐れて、あえて 信忠を廃嫡し、自分が天下を取ったのではなかろうか?』

と 秀忠は考えたからです。

しかし 残念ながら 家康と秀吉の間には密約が交わされていたらしく、秀吉は それを拒んだ。

(家康は 自分の子よりも秀吉と手を組むことを優先させた。だから 秀忠は失敗したのだろう。)

秀吉が断った以上は、どうしようもない。秀吉に逆らうわけにはいかなかったのだ。

そのため 彼は、そのまま降伏することになりました。

(信忠が生きていたならば、また 違う展開になっていたかもしれない。だが 彼は死んでいた。)

こうして 織田家は滅んでしまいました。そして 後に残ったのは 織田家臣団の生き残りだけなのですが……。

『織田信雄』という人物は 織田一門の人間であり、信孝の弟です。

この人は 信孝の味方をしていたのだが、その信孝が死んだあとは どうなったのだろうか……? たぶん この人も どこかに落ち延びたんじゃないでしょうかね? 信雄は けっこういい人ですから、信孝の家臣たちに かくまってもらったかもしれません。

(信雄は、もともと 滝川一益の子だから、秀吉の親戚筋に当たる人物なんですよ。)

それに もし 信忠の正室の督が 信忠と離婚しなかったら、信忠が死んでしまった後は、信雄が織田家の当主となっていた可能性も十分にあったはずです。だから 彼が生き残っていても不思議はないと思うんですけどね。

(まあ でも、そんなことをしたら、秀吉と信長の間で どういう話になったのかわからないが、やはり秀吉は 激怒したと思う。信長は 信長で そういうことは嫌ったんじゃないかと思うんだよ。)

ただ……信忠には 他に子供がいない。信長にもいない。秀吉には 子供がいる。だから……もしも 万千代(信忠)が生きていれば、信孝と信雄は兄弟ということになるわけで、そう考えると、信雄が 信忠の従兄弟として 信忠を支える役目にまわるということも考えられるんだけど……まあいいか。

信雄は 家康の味方をして敗れたのだから、その彼には、もう希望がないわけだし、たとえ 生き延びていても 家康が彼を匿ったりしなかっただろうと思うので、彼もきっと死んだんじゃないですかね。

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