72話
『信長公記』によると、これは 義昭との約束によるものだそうです。
つまり この年に 信長が上洛した際、朝廷は、公方様に官位を授与しようとしたのですが、将軍様はそれを嫌がり、代わりに 太政大臣の官職を与えたので、今度は 公方様の方で 朝廷にも官職を与えるべきと主張したそうなのです。
その要求を受けて、天皇は 従一位左大臣に任命したそうで、それが二十二日のことだったと記されています。
そして信長が 権大納言に昇進しました。そのあとに改元があったので、元号が変わったことを知らせにきたという名目で、信忠は 二条関白殿を訪問したそうです。
しかし 本当は、朝廷に多額の寄付をしたお礼に参上したという側面が強かったのではないかとされています。
(もっとも 父のように金品で解決するのは避けたかったらしく、官位だけで済ませたそうです。)
ちなみに、このとき 信忠は 父から、尾張、美濃、伊勢の三国を褒美として与えられました。
(のちに 信忠は、これらの土地を加増されているので、信忠の代になってからは、領地は五倍ほどになっていましたが。また 信孝の代にも加増されたらしい。)
その後、信忠は さらに、京都守護の役職も与えられたのですが、実は これに関しては、信忠は 辞退するつもりであったようです。ところが 信忠は辞退したかったのに、秀吉と信長が反対したために、仕方なく受けるしかなかったそうです。
また この時、同時に 近江と山城の守護職も与えられたのですが、こちらは固辞したらしいのです。しかし 信長が 無理矢理に押しつけたようなのです。
信忠としては、父の威光を借りての 傀儡のような立場になるのが嫌だったのかもしれません。
(それに、近江と山城は 浅井長政の領土だったので、それを召し上げることになるのです。だから、信長が強引に押しつけたというのは本当かもしれません。)
さらに その後、九月には、信忠は 越前一国も与えられる予定でした。しかし、その直前になって、秀吉が 自分がもらうと言い出したため、信忠が譲り受けたらしいのです。そして その後すぐに、越前一国は 弟の秀次に渡されてしまっていて、信長が欲しかった国ではなかったことが窺えます。
その前に、七月二十五日には、岐阜城に、信雄と信長の嫡男の奇妙丸が訪れていて、八月六日には、信孝や信澄など、信長の息子たちが集まっているので、おそらく 彼らは、一緒に食事をしたりして親睦を深めていたのでしょう。
その後、十月にも、信忠が訪問していて、信長が風邪を引いていたので、会わなかったそうです。そして、十一月には、また 親子揃って 信忠が訪問したようで、そのときには、信雄はもう亡くなっていたため、信長の側に 信忠だけが居たそうです。そして、翌年の天正十四年一月一日(西暦では 三月中旬)には、再び 父子で対面している。ただし その時の信忠の様子はいつもと違い、ひどく元気がなかったそうです。おそらく その時には、病が悪化して、かなり衰弱していたからでしょう。そんな信長の容態を見て、信忠は 不安になっていたかもしれませんね。
ちなみに 信長が病気の間は、信長の家臣である森蘭丸が、代理を務めていたそうです。
天正四年三月二十三日に、信長の四十三回目の誕生日には、安土城で、織田家の人々を集めて盛大な祝宴が開かれたそうです。そして、四月に 信長が上洛したさいには、山科言継の別邸にて歓待を受けたという。
その時に、四人の姫たちと婚約し、そのうち一人を妻にしたらしい。
この中には、信長の姪で、信長の正夫人でもある徳子の娘も含まれていたのだとか。
信長は、正室以外にも側室を持っていたので、その中の一人と結婚したわけです。ただ、この話は、あまり信じられていないそうです。信長は、多くの女性と関係を持ったとされていますし……。
ただ、信長は、自分の子供を後継者にしようと考えていたらしく、信忠が成長するまでは 信長が後見人となっていたそうなので、そうした関係もあって、信長が面倒を見てくれた可能性は十分にあると思うけど……。
ところで、このときの信忠は、信長が 自分と同じ十五歳だと思っていたらしいです。
(実際は違っていたみたいだが……)そのため、信長のことを若様と呼んでいたそうな。
(信忠が信長を若様と呼ぶことは よく知られていたが、それは信長の遺言に従ったからで、信長の命令によるものではありませんでした。つまり、信長の死後は、信長のことも 父上と呼び始めています。)
そして その信忠に、九月末に、秀吉は、尾張と美濃を与えると宣言した。
秀吉は、この尾張を、息子の豊臣秀次に与えるつもりだったそうです。
(しかし 秀次は 辞退してしまいましたが。)
秀吉が そう決めたのは、秀次の母の実家の浅野長政から頼まれたからだという。
秀次は 母の兄である浅井久政の養子になっていましたが、その縁故を頼って 浅野長政の息子の長直を養子に迎え、秀吉の養女を嫁にもらっている。
だから 長政としては、息子を秀吉に頼んで、秀吉の子分になってもらいたかったのかもしれない。それで、信長の三男・信孝に、弟たち(奇妙丸と奇忠丸)を殺された復讐のために、家康と手を組んで、秀吉を殺そうと企んだのだろう。
しかし結局 秀吉は、信長の実子ではない奇妙丸と奇忠丸の方を可愛がっていて、秀吉にとって信長の子であるのは、信忠の方だけだった。
そこで、信長の遺命に従って、秀吉は、信忠の後見役に名乗りを上げたという。信忠が成長するまでのあいだだけ。
しかし 信忠が成人したら、当然 秀吉は信長から見捨てられることになるので、そうなったとき、代わりに信長の後釜になるのを狙っていたのかもしれない。
まあ 秀吉の思惑が何であれ、信忠としては、自分が父の代わりを務めなければいけなくなるとは、思いもしなかったでしょうね……。
また この当時、尾張には、丹羽氏勝や滝川一益といった武将がいたのですが、彼らもまた、秀吉によって殺されてしまいました。
このときに秀吉に味方した者の多くは、信忠にとっては味方ではなく、むしろ敵対的な人物だったようです。
(秀吉の敵は信長の仇であり、信忠の味方ではなかったのです。)
さらに言えば、このとき、織田家中で最後まで抵抗したのは、柴田勝家と前田利家でした。
(利家は、秀吉に捕らえられて処刑されたが、勝家の方は どうなったのか??)
ただでさえ信長の死によって、家中は荒れていて、そのなかで、柴田や前田のような者たちが生き残れたのは不思議ですね。
あるいは 彼らは、信長から信頼されていた重臣であったかもしれません。(しかし そうだったとしても、やはり疑問は残るのですが……。)
しかし ともかく 秀吉が織田家を滅ぼしてしまったことに変わりはない。その後しばらくして、信忠は、秀吉が天下人となったことを知った。
そのとき、どんな気持ちになっただろうか? もし私が信忠の立場なら、とても平静ではいられなかっただろう。
それから間もなくして、九月二十九日に、安土城において、織田信雄が謀反を起こしたという知らせが入った。信忠は、ただちに 討伐の兵を挙げた。




