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歴史という名のファンタジー  作者: みなと劉
71/255

71話

最後に、五男の高坂昌信の息子の馬場信房が、信長の家臣となっています。この人が 後の徳川幕府の武将となり 信輝からは、信房と一字もらったことから信輝と名を改め、最後には将軍となるのが 有名な話ですね。

この人の父親は、織田信長の家臣の馬場信春(美濃の斎藤道三に仕えた)の次男である信重だったり あるいは、織田信秀の庶子である 平手の政秀(尾張守)と信友の娘が母親であるとも言われています。

なので、信長にとって 血筋上は 甥に当たる存在でもあり、信長に気に入られていたらしいので、その関係で、信長の家臣になっていたとか?

ただ、信房が いつ どこで誰の子として生まれたのかは分かっていませんが、少なくとも信房の母親が今川治部大輔(今川義元の父)の娘であったことは確かであり、それゆえに 彼は、義元の血を引く人間なのかもしれません。

(しかし だからと言って、それが どうしたということもないと思います。)

さて今回も、前回に引き続き、武田信玄の子供たちの話をしていきたいと思います。まずは 長男の義信ですが、彼には 正妻との間に子供ができなかったので、正妻の三条夫人の連れ子である菊姫が正室になっていました。

彼女は 三条公頼の養女だったそうなので、実の母親は不明だそうです。そして三条の方が、その夫とともに死去したため、菊姫は武田家から離縁されました。

また 信輝の姉は、三条の方の子とされているようです。(ただし、生母が三条の方なのかどうかは不明である)

また 信照は、義信の側室の子だそうです。その母は三条の方と言われていて、その母親は、公家の娘である御東の方と呼ばれていた女性で、その子供には 勝千代・千姫・市姫がいるそうです。

また、勝頼の正室は 今川氏の姫だったそうですが、彼女の実父については諸説ありまして、義信が武田家を継いだあと、氏真に追放された三条の方の子であるとする説と、義信の正室だった三条の方が産んだ娘という説があり、その両者が合わさったような説として、勝頼が産ませた子供だとされることもあるそうです。

次に次男の義康は、父に殺されてしまっていて、その子も死んでしまっているので、彼についての詳しい話は、あまり残ってはいません。しかし 勝頼の側室の子で、武田太郎という名前の子供がいたので、その子が後に武田勝頼になったという話があります。そして三男である信君は、正妻との間に生まれた子だったので、勝頼の正式な後継者になれました。

その母が、諏訪頼満の姪で、勝頼の正室が、武田信虎の娘であったために、信君の代になると、信玄が、信君が跡を継ぐことを許したとも伝えられています。

しかしながら 信君も 早くに亡くなり、彼の子の四郎勝頼は、信玄の五男(もしくは 信玄の四男)なので、信玄の後継者にはなりませんでした。その彼の兄や姉は すでに亡くなっていて、彼の子はいたかもしれませんが、やはり跡継ぎにはなれなかったのです。

そんな時、彼の異腹の兄である信廉は、信玄によって武田家の当主の座を奪われ 出家させられ、さらには甲斐守護を取り上げられてしまったのです。

(のちに 甲斐を再び与えられたが 甲斐守ではなく 上野介に任じられた。)

その後 信廉は武田家の家督を継いだものの、結局 彼が どのような経緯を経て亡くなったかは分からないそうで、信廉が亡くなるまで、武田家が滅亡せずに済んだことは事実らしいのですが、その最期は不明なのです。

それから、信玄の長男である義信は、武田家の家督を継ぐと 武田晴信と名前を変え、甲斐の守護大名となったものの、すぐに家臣の謀反で殺害されてしまい、さらに その弟である信繁は 兄の義信の仇を討つために自害してしまいます。

その後、武田家を継いだ信玄の次男である信輝は、信輝が当主になってからは、義信を殺した重臣たちを追放し、信玄の弟の信廉も追い出したそうです。そして信輝は、信玄が隠居して信廉に家督を譲ると、信輝も武田家を出て織田家の養子になったので、武田家は事実上滅亡したようなものでした。そして、信輝が武田家を乗っ取ったような形で、武田家の家督を継いだことになります。ちなみに 信輝は、信玄が死ぬまで武田家当主であったわけではありませんでしたので、信玄が死ぬ前に、信玄から武田家の家督を譲られていたのかもしれませんね。一方、勝頼が当主の時に 甲斐が滅びたのは、おそらく 彼が家臣たちの反対を無視して 無謀な戦いを繰り返し、その結果 負けた上に 多くの犠牲を出してしまったからだと思われます。

『甲陽軍鑑』という本では、信輝が、信長に臣従する前の 勝頼に、武田家は滅ぶ運命なのだから、降伏しても無駄だと忠告した話を載せているくらいです。なので、信輝が武田家にいたこと自体 怪しい話でもあるし、彼が武田家を滅ぼすきっかけを作った可能性もあるでしょう。

『戦国人物列伝』には、信輝が信長から偏諱を受け、輝信と改名していたと書かれているが、その根拠は 定かではないと書かれていました。ただ 信長と武田勝頼との間では、何らかのやりとりがあって それで改名させられた可能性も十分あると思いますけど……。

最後に、信君は信長の家臣となりましたが、信長の死後 家康に仕えたという説と、信輝に仕えて のちに独立したという話があるそうです。

また 義康の子 義信の息子の義清は、今川義元を頼っていったという話もあるそうです。しかし その義清は、今川家で、義元の娘と結ばれて、今川家を継いでいます。義元は 信君の娘と婚約していましたが、その義理の娘と義清が結婚し、今川家と武田家の両方の血を引くことになったのかもしれない。

(もちろん 単なる偶然の可能性もあり得るし、そもそも義清の存在自体が疑わしいですが……)

さて今回からは、織田信長の子供について書いていきます。

まず最初に、『信長公記』によれば、天正三年四月二十日に、信長は、京・本能寺において 右大臣 正二位・内大臣に叙しているので、信長が征夷大将軍に任命されなかった理由に、朝廷への献金が不足していたのではないかと言われている。そこで信長は、朝廷に対して莫大な額の献金をし、従三位参議の官職を与えられたのだそうです。

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