70話
ただ 武田二十四将とか言われていても、実際には武田家の滅亡の際に 多くの家臣たちとともに ほとんど滅ぼされてしまった大名も多くて、そうした場合には、その大名の名前が残らなかったこともよくあるんですよね。
(例えば信長の家臣として最後まで仕えていた滝川一益は、武田滅亡時にはすでに亡くなっていましたからね……。)
そういう意味では、織田信長の家臣であった羽柴秀吉のように、のちに徳川家康に仕えた人物であっても、あまり名前が残ることはなかったりしますし、また、上杉謙信も 謙信が死んだ後で 名前を残すことになったわけだし、伊達政宗も そうですね。まあ、信玄の時代から活躍した大名であればあるほど、その数は減ってくると思います。
そして そういった意味においては、織田家の家臣の羽柴秀吉が、後世において名前を残せて、しかも出世もできたということは、信玄や信廉のような早死組ではなく、信玄の死から数年後に亡くなっているとはいえ、それなりに長く生きられた信繁などは、信玄からすれば、比較的扱いやすい存在であったのかもしれません。
それにしても、もしも信繁が生き残っていて、信繁が養子となって 跡を継いでいたら、信繁の子供の誰かが、信玄から見れば孫にあたり、また、信繁の子の中の一番年上の子が、信忠の養子になって、次の代から家康と名乗れば その人物は信玄から見た曾孫になったのかもしれません。
そうすると、もしかしたら、徳川幕府の成立は、もっと早いものだったかもしれません。
もっとも これはあくまで 私の妄想にすぎないので、本当のところはどうなのかはよく分からないのですが……。)
それから、ここでもう一つだけ言えることは、信玄が 自分の兄弟の中で一番優秀な弟である 武田信廉と仲が悪く、したがって、彼が 義信の家督相続に反対していたことがあります。
そのため 信玄が死ぬときには義信が当主になっていたという可能性もあるかもしれませんね。
さて 信玄の兄弟の話でしたが、今度は、彼の弟の信康と 甥であり娘婿でもある信輝の話に移りたいと思います。
ただ、今回は信康については割愛しておきます。
(だって、彼について語るべきことは、もうないですから。)
そこで 次は 甥の信輝の話になります。彼は、武田義信の甥であると同時に、信玄の息子である信澄の嫡男でもありました。なので 当然、信澄の義理の甥にあたるので 信玄の孫ということになります。しかし 義信が、信玄の弟たちの子供だとしたら、この信輝は誰の子供なのでしょうか? 信照か それとも 他の誰かの隠し子ですか? まず 信照について説明しておくと、信照の母親は 今川義元の娘なので、彼は 武田信玄と今川義元の二人の孫ということにもなりえます。
そして 実際に、桶狭間の戦いの後で 信長が、義元の遺児である義龍を殺したときに、その長男・信成を養女にして義理娘としました。
その後に信秀が死に、その跡を継いだ信長は、自分の後継者を義信に決め、信長の跡を義信が継いだときのために 自分の血を引いた孫である義信を擁立しようとしたのだと言われています。
ところが 義信は 自分の母親の出自が低いのを理由に 信長とは対立し、さらに、信長の後継者が自分ではなく義理娘の息子(すなわち 信成の息子)であるとして、義信は、信成を殺してしまいました。
そして 信長は、義信を謀反人として討ち取ったのでした。
しかしながら 義信と信長の間に戦はなく、むしろ 信長の方が義信に一目置いていたという話は有名でありまして、信長の死後息子の信雄が信長の後継になると、信雄は 信重と名を改め さらに 息子の信長の跡を継ぎ、信長から正式に家督を相続させてもらいました。
つまり、義信が死んで その後を継ぐはずだった義統が殺されたために、義輝の子は誰もいなくなり、その結果 義輝の養子だった義昭が、信長によって殺されてしまったことで、義昭の子の中で最年長だった義昭の養子の義続が信長の正式な後継ぎになったという話がそれにあたります。
(もちろん これは史実ではありませんが。)
また、信照についても、義信と同じく 武田信玄の孫ですが、信輝は 父に認知されて生まれてきた嫡出子であったため、その身分は、信玄の庶子であった信繁よりも高くて、その母は三条の方ではなかったそうです。
(ただし、信輝の母に関してはよく分かっておらず、おそらく三条の方だと思われているようです。)
また、信照には正室がおり、その子には信俊がいるため、義信とは違って 信照は、義信とは別の人物と考えていいかもしれません。
次に 信玄の六男である勝頼は、正妻との間には子供ができなかったため 勝頼は側室を持っていたそうです。そして、その子供の一人が、後に 徳川家康の養子となり 家康は、信忠から徳川姓をもらい さらに信輝から偏諱を受けたことから信輝と改名し、最終的には征夷大将軍になることができたわけですが、そんな彼は 信輝の異母姉のお江の産んだ子とされていました。また 彼の兄や姉にも 子供がいたようでして、その中には 後の大名になった人もいるそうです。
ちなみに、勝頼が持っていた子供の人数は四人だそうで、その一人が 信玄の娘である大方姫との間に生まれたのが、武田信廉という人で、その人は 出家して武田晴信(のち信玄)と名乗っていました。
そして 信玄から武田の姓を与えられた上で、甲斐の守護大名であった武田氏の家督を継いでいたのです。
その弟の 武田義信と 武田義統が、のちに 信廉の子である 武田信繁と武田信豊に殺害され、信廉は自害しています。
それから、信廉は 武田の家督を継いだものの、その死後 すぐに亡くなってしまったので、信廉の子供はまだいなかったはずです。
なので、もし生きていたら、信玄は 自分の兄弟の誰かの子供を跡継ぎにしたのかもしれませんね。
そして、信玄の三男である武田徳栄軒も、武田家滅亡の直後に亡くなっているそうなので、彼も子供はいなかったかもしれません。
(信玄の子供の年齢から推測すると、徳栄軒の年齢は四十歳くらいか?)
また、武田義統は、義信からすれば 叔父にあたり、その妻は 信照の妹なので、もしかしたら 義信にとっては、従兄弟の配偶者のような感じの人だったのかもしれないですね。
でも 彼が生きているなら、信玄は、彼の息子が成人するまでの間は 武田家の存続を許してあげたような気はします。まあ、それでも やっぱり 武田家に跡を継がせたとは思いますけど……。
また、信玄の四男で信輝の弟にあたる穴山梅雪の子は、まだ幼いながら信輝の娘婿になり、彼は、信輝の養子になってから、やがては、信輝から 偏諱を受け信輝に改名しているそうです。
なので、彼は、信長と同盟を結ぶための人質となったという話もあり、その後 信長が、本能寺の変で死んでしまうと、そのまま信長についていき、最後は信長と一緒に死んだそうです。




