69話
ただ、この弟が後に、のちに、あの戦国一の美少年の武将として有名になる上杉景勝こと上杉政虎(後の景勝)であった可能性もあります。
ただ、ここで問題になってくるのは、そもそも信玄の父の武田義信は、何歳くらいで亡くなったのかということです。
(一応、享年は17歳で 義信の死後は、弟の信繁が継いだそうです。)
また もし、このときに、信玄の祖父や曾祖父などが生きていれば、義信が死んだとき、当然、信玄が家督を継いだでしょうし、そうした場合に 信玄が名乗った名が信玄だったかどうかは分かりませんが、信玄が信玄を名乗った可能性もあるのではないかと思うわけです。
ですから 信玄が 自分が名乗っていた名前の候補としては 他にもいろいろ考えられて、まず、一番ありえそうなのは 出家していた信虎の法名である戒能ノ勝とか 勝長とか勝久といった名前です。
ただ、これらの名前は、あくまでも仮名であって 正式の名前ではない可能性もありますが……。
それから、他には 信廉の名前のように、改名させられた名前の可能性というのも、もちろんあるでしょうし、あるいは 信繁が、信玄の養子にいった際に 改名した可能性だってありますからね。
ちなみに、信繁は その後 隠居した信玄のもとで 内政面で活躍したそうですが、それにともなって 改名したりしてなかったのでしょうか? あとは もし仮に 信昌が生きていたとして、その子の名前を変えさせるにしても もっと後になったのではないかとも思います。なぜなら、信玄の息子たちは、皆、早く死んでしまいましたから……。
(信玄の娘のうち何人かは、武田家を滅亡に追いやった張本人だったりするんですけどね……。)
しかし 信昌の子が生き残っていて、その子が信玄の養子になれば、その人物が跡継ぎになってもおかしくはないし、実際にそういうこともあったかもしれないとも思ってしまうんですよね。(その場合は、その人物は、信玄にとって初めての自分の孫だったのかもしれません。)
それから もしも信康が生きていて、その息子がいたとしたら その人物の名前を改名させて、別の名前をつけた可能性はあると思うのですが、さすがに、このあたりについては 私の想像では 分からない部分が多いので、どうにも断言はできません……。
(もっとも、もし そのようなことがあったとすれば、おそらく 信長の義理の息子である 秀忠の娘婿になっているはずで、その場合だと、信輝の可能性が高いかもしれません。)
さらに もう一つだけ考えられる可能性があるとすれば、信玄の子供が、一人しか残っていなかったために、信玄の代から 他の息子たちと差別されていた場合だと思います。
(たとえば 信茂がそうだったかもしれないとかね。)
信玄は、自分の血を引く子供の中で 長男である自分よりも 次男の信繁の方が優れていると考えていたらしく、そのため 次男を後継者にしたという説もあるのですが、こうした可能性もありえたかもしれません。
でも これだったら 逆に、あえて、長男なのに名前を変える必要はないような気もするのですが……
(まあ、それでも 可能性がないわけではないのですが……。)
さて、話を元に戻すと 信玄が出家せずに 信玄という名前を使っていたのは おそらく永禄4年から5年にかけてのことでしょう。そして、信玄が亡くなったときには 信玄はまだ30歳だったことから考えてみても(享年が33歳であったことは、よく知られている話ですね。)
少なくとも永禄8年以前のことだと思われるのです。
ただ、ここで一つ疑問が湧いてくるのは、信玄の兄弟たちの年齢なんですよね。彼らはいずれも早死しているとはいえ、例えば 義信の母は、義信が生まれたときに亡くなったわけだし、信繁や信廉の母についても、彼らが生まれたのは、義信より10年も前のことでありますから、普通に考えても 義信の母親の出産が早かったと考えるべきなのでしょうが、しかし その一方で、義信の母の死因について、信繁が毒殺されたという証言もあるのですね。
また 信繁の妻で 信廉の妹の大蔵卿局は、信繁が殺された直後に生まれたという異説がありますし、信繁の正室であった三条の方も、信繁が暗殺された直後に生まれたという話もあったりします。
(信繁の兄・信隆が、信繁の死後すぐに生まれたため、信繁の側室であった三条の方と、信繁の弟の信方が同時に生まれたという説もあります。)
つまり 義信の母である三条の方が、義信を生んだのは遅くても永禄4年以降であり、しかも信繁が毒殺されて間もない時期だった可能性もあるのではないかと思うのですよ。
そう考えると、信繁が殺されるまでは、義信の母親である三条の方が、信玄の後継者の最有力候補であった可能性もあるのではないでしょうか?
それを考えるならば、むしろ 彼女が、自分の母の実家にあたる今川家を頼っていた可能性だって否定はできないと思うのですよ。
ただ、これについては、信隆が信玄の跡を継ぐべきだという考えを持っていたらしい信玄の弟・信廉は、義信の母・三条の方に対して、非常に冷たい態度をとっていたという情報があるようです。
また、信玄が、義信に家督を譲ろうと思っていたのなら、その生母は、自分の親族にすべきだろうと考えた可能性もあるとは思うのですが……。
しかしながら 信廉や義信の父の義信が、どうして義信の母に冷たかったのかというのはよく分かりません。
(信繁が、信繁の死後に生まれた信方(義繁の息子)や信高(信繁の孫)を可愛がっていたように、信玄も、自分の孫やひ孫たちには優しい一面があったそうなんですがね……。)
それと 義信が武田家を相続する前に出家していたことは確実視されていますが、その時期については、やはり不明です。それに加えて、そもそも信玄がなぜ 義信に跡を継がせるつもりはなかったかという理由についても、はっきりしたことは分かっておらず、その理由としては 武田信玄公遺言書が、信玄自身が書いたものである可能性が高くて、それが偽物だという可能性は低いことにあるとか、あるいは、信虎を追放した経緯があって、それで、信虎の子である義信には継がせたくなかったといった説があるものの、どちらが正しいのかは分かっていないんですね。
なお、信玄が亡くなって、信玄の息子のうち三人が続けて死んだことや、さらには 息子の勝頼まで死んでしまったことによって、一時は、武田家が滅ぶのは時間の問題だと思われていましたが、それでも 最終的には 武田家の存続が決定して、今は、あの有名な戦国大名となったわけですが、そんな風に 結果的に、滅亡を免れたことで 後世に名前が残った武将って、実は意外に多くいるんですよね……。




