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歴史という名のファンタジー  作者: みなと劉
68/255

68話

あるいは もっと言えば、出家することもなく、苗字を変えることもなかったからこそ 彼らは「山県一族(分家筋)の中でも特別視された存在だったのではないだろうか?

(ただ あくまでも私の個人的な感想でしかないので、確証は何もないですが……。)

ちなみに

『甲斐国志』によれば、勝頼の子には『長頼』、『頼勝』がいたそうです。そして、その子たち(勝頼の孫にあたる人たち)も、やはり『武田』を名乗っていたようです。

「勝頼の子」のうち、嫡男の勝頼の嫡男は『高坂太郎左衛門勝政』で その正室(妻)が信玄の妹・真理姫だそうです。

また、勝頼の娘(娘と言っても信玄の姉)の子が『仁科太郎信勝』

という人物です。その妻の父が『馬場信春』で、その父・『信廉』の息子が『武田信豊』、さらにその妻は『山本勘助』の姪なのだそうです。

(以上はすべて「甲斐国志」による記述であり、出典元については『甲陽軍鑑』とのこと)

さて、ここからが本題なのですが、私は 勝頼が「武田信玄の養子になった説」について調べていくうちに、ある一つの可能性を考えつきました。

その可能性とは、すなわち「勝頼自身が 実は『山県昌景』だったという可能性があるのでは?」というものです。(『甲陽軍鑑』などでは、山県昌景の養子となったことが書かれています。

もっとも、勝頼と昌景では年齢差がありすぎると思うのですが……)

まず最初に考えたのは、信玄と勝頼の間に「実子がいない場合」のことです。その場合は、当然、信玄は、信玄の兄弟の誰かを養子にするはずです。

(もちろん、勝頼も、他の信玄の兄弟と同様に、全員、養子になっていたのかもしれませんが……)

そうなると 信玄の「兄弟間の関係」の中で養子にいった者は誰なのか、ということになってくるわけですね。そして、信玄には、信玄の五男(義信)、六男(信繁)、七男(高坂信包)、九男(小幡虎盛)、十男(武田義信)、十一男(小幡虎盛)という兄弟がいるわけですが、そのうち、九男の小幡虎盛以外は全員が、すでに出家していて亡くなっているそうです。

(ちなみに小幡虎盛も、現在は死亡しているようです)

(この九男の小幡虎盛以外の八人は、出家したあとは姓を変えていて、例えば九男の小幡虎盛は、武田義信と同じで 最初は、信俊と名乗っていたそうですが、のちに改名して 泰秀を名乗っているとか……。)

ちなみに、ここで重要なことなんですけど 信玄の兄弟は、それぞれ自分の子たちには名字をつけさせなかった一方で、信玄の弟や甥っ子たちの子供たちは 自分の孫にも、ちゃんと自分の名字を継がせているんですね。たとえば、先ほど名前を挙げた勝頼や信廉の子供(信豊や武田信豊など)が そうした信玄の甥や甥の息子たちです。

ですから この場合、もし 信玄に子供がいないとすると、後継者となるのは信玄の四男で 信玄の養子であった信繁のはずだったんですね。

ただ、信玄は、そんなことは絶対に許さなかったでしょう。

また その場合、勝頼の子供が跡継ぎになるとしても、やはり勝頼は信玄によって育てられたのではなく あくまで信勝と同じように どこかから引き取られてきただけの可能性もあります。つまり 信広の場合も 信広は、武田家の家臣の子で、織田家に人質に出されたあと 信長からもらったという話ですし、また信廉の場合でも 信廉は もともと尾張の出身で 武田家から見れば、よそ者でしかないので、信玄にとっては、あまり可愛くない子供だったと思いますし……。

まあ、でも、いずれにしても、こうした可能性を考えている中で、一番有力なのは 信玄と勝頼の親子説ですね。

そして、そう考えると、いろいろな点がつながってくるんですよね。

たとえば、信玄には 勝頼以外にも、もう一人、養子の候補がいまして、それは、武田家の筆頭重臣である高坂弾正少弼昌信の長男で 勝頼の義弟にあたる人物だったりするのですが……(その人物は 勝頼の義兄でもあるのですが……。)

彼は、信玄が亡くなったあと、どうなったのか不明だそうです。

(一応、名前だけなら残っているそうですが……。)

しかし、もし彼が勝頼ではなく、その養子として信玄の養子になっていたら、信玄は その男の名前を変えさせたりはしなかったのではないでしょうか?

(少なくとも、彼の妻の実家の姓は変えない気がします。)

それから、信玄は 他にも信玄の養子がいたかもしれないとも思いました。

(ただし、その人物が誰なのかは、私には分かりません。信玄は、自分だけでなく息子にも、たくさんの養子を送っていますからね。)

ただ、もしそうだとしたら、その人物が、信玄にとって、どんな人物だったのかも気になりますよね。(おそらくは、優秀な人物だったんだろうと思うのですが……。)

(この人物についても 名前しか残っていないらしいです。)

ちなみに 信玄が、なぜ、自分の兄弟の子供たちを養わなかったかといえば、これは、もう 完全に想像の域を出ない話になってしまうのですが、 一つは、信玄自身が 長男でありながら 次男であったことが 影響しているかもしれません。

(もっとも これだと勝頼の場合と同じで 信広のような例外的な例を除くことになり、かなり難しいことになるかもしれませんが……。)

それに、仮に信玄が、兄弟たちを皆、平等に愛したのだとしても、やはり 信玄自身に それだけの権力と財力があれば、わざわざ養子をもらえなかったことで 兄弟たちが不平不満を持つような事態には、ならなかったのではないか、と思うのですね。

ですから そのあたりのことも踏まえて考えてみれば、信玄の兄弟で出家していなかった者たちのほとんどについては、おそらく 何らかの理由で 名前を変える必要があって、それで、彼らの名前が 後世に伝わっているのではないか と考えてしまうのですね。

さて、そうなると 次に考えられる可能性としては、信玄が『武田晴信』と名乗っていて

『武田信繁』と名乗っていた時期があるように、『武田信玄』と名乗った時期もあったのではないかということなんです。(「武田信玄」という名前は、実は「信虎」の時代に使われていたという説もあったりしますが……。)

もしも 信玄が『武田信玄』を名乗っていた時期があったならば、それがいつのことだったのかについてですが、私は それは『永禄4年』ではないかと思っております。(「甲陽軍鑑」によると『武田信玄』という名の由来は『甲斐源氏』の名流だからとのこと)

『甲斐国志』や『甲陽軍鑑』によれば、信玄の父は『武田義信』で母は『三条の方』でして、信玄と兄とは同母兄弟だったとされています。ただ、この信玄と兄との間にできた子に関しては、父は不明であり、生母も不明となっています。

(この子は、のちの有名な武将・真田幸村の母である大蔵卿局の父という説もあるそうです。)

また 弟に関しても、父や母の素性は分かっていません。

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