67話
(『戦国人名辞典』にも そういった説明が載っていました)
ただ
「信玄」の書状を持っていることや
「信玄が『山県を召し抱く』といった内容の文書が残っていることなどから
『信玄の配下』であった可能性は非常に高いと思います。
(「武田二十四将」の「内藤昌豊」は「武田義信」の家老でした)
ただ、残念ながら 彼の活躍を示す史料はあまり残っていないようなので、何とも言えない感じではあります。
ただ、それでも
「信玄」の信頼を得ていたということは間違いないようです。
(『甲陽軍鑑』や その他、色々な本で取り上げられています)
また 一説には
「信玄は彼に『駿河守』という官職を与えたそうです。これは『駿河の守護である、今の今川家の立場』と同等に扱うという意味である」とも言われていて さらに もう一つ、別説もあるそうです。
それは
「『武田家の代々の家訓を預かる役目を負わされた』のだと解釈するべき」という説です。この解釈であれば、彼が
「甲府館主」という地位を与えられている意味が分かりますし、納得できます。
つまり
「信玄」から直々に
「武田家に伝わる家譜などの書物の管理を任されていた人物」だったということですね~。
もっとも、「信玄」が生きていた当時は、「山県」という名字は他にも何人かいたそうなのですが……。
『甲斐国志』によると 彼は
「先祖は、平安の世より続く名門で、代々の官位も高い家柄であり」、また「祖先が武田信虎公に仕えて、功があった為」なのだそうだそうです。
「『武田』の姓を持つ者は、すべて『源』の字を持っていて、名字の前に『信』の字がつくのが正式だ。」そうです。
(ただ、実際には『信重』、『信政』、『信友』、『信勝』、『信昌』、『信昌』のように、『政』ではなく
『正』の場合もあるようです)
そのため
「信玄の父、晴信は、元々は『勝頼』と名乗っていましたが、のちに出家して『信君』と改名しているのです。
ちなみに、勝頼というのは 出家前の名です。
(『甲斐国志』によれば
『勝頼』とは『勝頼』のことで、諱で実名ではありません)
ちなみに 勝頼という名前の語源は、諸説ありますが「強い意志」という意味で、そこから「強く頼れる者」という意味に変わったとも言われているそうです。
さて ここで一つ気になることがあるんですね。
『甲陽軍鑑』では、彼の子孫(子孫と言っても「武田二十四将」の一人)について、こんなふうに書かれています。
「勝氏・幸氏は共に武田信玄の子・四郎太郎信虎・信君の子である。(中略)信玄は、この両名は養子とすべきであるが、両名ともに実子であるので、両名とも信玄が養育して、勝氏と幸氏の二人を育てさせた。その折には勝氏が『父上様の跡を継ぎたい』と望んだので、勝氏を養って育てさせ、信玄亡き後、勝氏は勝頼となったので、勝氏も武田二十四将に数えられることになった」
つまり、勝頼の子孫たちは、それぞれ「信玄の子供」だったわけですね。(まあ
「武田二十四将」ですから、そうなんだろうけど……。)
ただ、そうなると疑問が出てくるのです。なぜ 彼らは全員 同じ「山県」を名乗っているのか? それどころか 全員「信玄の養子になったわけでもない」のに
「全員が信玄によって育てられたかのような扱い」を受けている。
どう考えても おかしいです。
(『甲斐国志』では 勝氏以外は、全員、出家していて すでに亡くなっていると書かれているそうです)
(そして
『甲斐国志』では 勝頼だけが信玄の「養子」になっているが これは「勝頼が信玄に気に入られていたからだ」とも書いてあるそうです)
また
彼らの家系については「武田氏の家譜」(別名:武田二十四将の家系図と言われているもの)で、こうなっています。
「信玄の五男である義信は『義信』、六男の信春は『信春』と名乗ることを許されている。(『甲斐の歴史』では『信春』の名前は出ていなかった気がします)信玄の四男である信繁は『信之』と名乗り、四男の信昌が『信昌』を名乗ることが許された」
「七男である高坂昌信は、はじめ『信包』と名乗っていたが、のちに『昌信』と改めた。(中略)九男である小幡虎盛が『小幡』、十男の武田義信が『武田義信』を名乗った。(『甲陽軍鑑』では、このあたりは曖昧な記述になっていて ちょっとわかりにくいです)」
つまり、信玄は、自分の子供の兄弟たちを 一人残らず全部、名前を変えて 改名させているわけですね。
(ちなみに
『甲陽軍鑑』によると このあとも さらに子供が生まれるらしいが……)
『甲斐の歴史』では、彼ら「山県」の一族について、こう説明されていました。
「信玄の五男であった義信は、『信之』(のち『信包』)を名乗り、信玄の弟であった信春は、信春の法号をもって呼ばれていた」
また
「信玄は、長男の義信や次男の諏訪義忠を可愛がっていたようで、二人の兄が亡くなるとき、義信に家督を継がそうとしたものの しかし義信は『自分は若年のため、家督を継ぐことはできない』と言い 義忠に譲ることにし、そのため義信は、信玄に付けられたまま、甲府にて成長したという。(『甲陽軍鑑』では、この部分の記述はないです)信玄の四弟の信繁は、信重と改名して出家していた」
といった内容でした。(なお この説明によると、信春は その後 信重が亡くなったため、武田家の家督を継いだようです。
ただし 彼は 信玄死後に、兄の信繁と争って殺されたとも 書かれているそうです)
つまり 彼らは みんな 名前を変えたうえで 出家しているということですね。(『甲陽軍鑑』では 出家のことは触れられていませんが……。)
そして このことについては もう一つ、気になる点があるのです。
それは出家せずに『山県』の姓のまま残っている者たちもいることです。たとえば 勝頼は そうですし、幸村なども そうです。
(他にも何人かいましたが、忘れてしまいました。)
ただ、彼らが『山県三郎兵衛尉』の親戚だとは考えづらいんですよね。
(勝頼が「山県三房」の子孫であるという説もあったのですが、残念ながら史料不足のためか、このあたりの詳しい事情は分かりませんでした)
そもそも、「信玄の親族」たちが皆、名前を変えられている中で、何となく
「武田家の家譜を管理していた人物(おそらく「山県」一族の者)は、『信玄』に苗字を変えさせられたりしなかったのではないか?」という気もしてくるんですね~。




