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歴史という名のファンタジー  作者: みなと劉
66/255

66話

ただ、その後、信玄は病死してしまうのですが、その後もしばらくは、織田家は優勢のまま進みます。

ところが 信長が急死してしまいます。これにより 彼の後継者争いが起きてしまうのですが(「清洲会議」です)

結果的にではありますが

弟の「織田信雄」が、その地位につきました。しかし、その後、織田信孝に追放されてしまうという悲しい結末を迎えます。(信孝も後に自殺してしまうという悲しさ)

一方、この信長の死後は信忠と信雄の間で戦が勃発します。

これは最終的に『大阪夏の陣』で終結するわけですが……。

次に、『関ケ原の戦い』について紹介していきましょう。まず、この戦いによって、それまでに築いてきた基盤が大きく揺らぎました。

(具体的には 東軍は「豊臣方」西軍は「織田幕府方」に分かれていました)

この東軍の大将である「石田三成」は「大坂冬の陣」にて 徳川家康を討ち取ることに成功はしたものの、逆に、大坂城を攻め落とされてしまいます。また、この戦いでは「真田幸村」も討ち死にしてしまいました。

(この「大坂冬の陣」では、両軍共に、かなりの犠牲者が出ています)

そして 家康が征夷大将軍に就任します。これによって、ようやく徳川家が政権を担うことになるかと思いきや、なんと、朝廷から 今度は、秀頼が天皇として擁立されてしまいました。

さらに、これに呼応するようにして

「前田家」までもが、将軍職に就くことになってしまったのでした。

(ちなみに、秀次については 後に自害させられてしまったらしいです。(これも家康の指示だったのかも))

この流れに対して、再び 三成らが反発したことで ついに戦争になってしまいました。

これが

「慶長5年(1609)の『関ケ原の戦い』であり、この戦で勝利した東軍は勝利し、「豊臣政権」が誕生することとなりました。」

そして、これ以降 日本は大きく二分されて争う時代へと突入していくのです。

なお、この時の

「三成」の働きぶりについては 、次のような逸話が残っているそうです。

「家康を追い詰めたものの、三成自身も追い詰められてしまう」

というのは、実は「三成」が裏切ったからだという話もあるそうなんですね~。

ただ これに関しては、どうなのかなぁ?という気はします。

だって いくら三成が有能でも、そこまで追い詰められるとしたら 他の重臣たちの方がもっとひどいことになっていたはずです。

まあ、いずれにせよ、 最終的には、「豊臣」が滅びるのだから ある意味「歴史は勝者の手によって書かれる」ということでしょうか?

次に 、個人的に印象に残っている合戦といえば やはり

『小牧・長久手の戦い』でしょう。

これは「徳川家康」と「羽柴秀吉」の戦です。

この戦では お互いに「決戦」を避けていたような節があります。

特に「秀吉」の方はかなり余裕があったようでした。というのも

「信長」が亡くなった後の、自分の立場は盤石なものだと自信を持っていたようです。

ただ、この時から 徐々に、徳川方に不穏な空気が流れ始めていたことも確かです。(家康自身も病気にかかってしまいますし……)

そして「長久手の戦い」が始まります。この戦も「家康」は 自ら先陣に立って 積極的に戦いを進めていきます。ただ そんな彼を

「前田利家」(家康の元配下)が諌めにいきます。(秀吉が亡くなってからは、彼と家康は、ずっと敵対していたのですね)

それでも 結局、戦いの趨勢を決めるには至らず 和睦に至ります。

結局、その後「関ヶ原の戦い」が起きるまで 両者は「和平状態」が続くのです。

ちなみに「関ヶ原の戦い」後は 徳川方の「前田利家」だけが生き残っています。最後に 今回の内容をまとめておきます。

・織田信長は「本能寺の変」により「室町幕府」を滅ぼす

・「天下統一」を目指すも、その途中で病死

・後継者争いが起こる

・最終的に「信忠」が跡を継ぐことに決定

・「大坂城冬の陣」と「大坂夏の陣」を経て、徳川家による「江戸幕府」が開かれる

・「徳川家による政治体制」の確立後、約260年の間続く(この間 大きな戦乱は起きなかった)

・やがて「明治新政府ができる」ことになります。

さて今回は、

『戦国時代の最強軍団・武田軍について』です。

武田信玄といえば、やはり有名なのが

「武田二十四将」でしょうか?

彼らはそれぞれ

『山本勘助』、『内藤昌豊』などの異名をもっていました。

この「信玄が任命」というシステムですが、「勝頼の代にも引き継がれ」ていくのですが……。(勝頼が実際に決めたわけではないらしい)

とはいえ 彼らについては 様々な伝説があるそうでして……。

(たとえば、「『四天王』は全員戦死したが、一人だけ生き残った武将がいた」とか、あるいは、「『四天王』の中でも 最も優秀であった人物は、『馬場』という名前の武将だと言われている」などといった話もあったりするそうです。

もちろん これら以外にも多くの伝説が残されているわけですが……。

しかし、いずれにしても、これらの話は真実なのか嘘なのかはわかりません。)

それでは、順番に紹介していきましょう。

1

『山県三郎兵衛尉』……『武田二十四将』『甲陽軍鑑』

2

『飯富兵部少輔虎千代』(後の『春日虎綱』か?)……『甲陽軍鑑』

3

『小山田右近衛将監』……『甲州法度之次第』

4

『穴山梅雪入道』……『甲斐国志』

5

『土屋右衛門左衛門』……『甲斐の歴史』

6

『甘利左衛門尉信広』(『甲斐源氏四宿老記伝』か『勝山記』)……『甲陽軍鑑』

7

『横田十郎太』(別名:秋山大治郎とも)……不明 以上7人となります。

まず

「『山県三郎兵衛尉』ですが 彼のことは、あまりよくわかっていません。

ただ 彼は

『武田二十四将』には入っていないものの

『信濃の国士で、最も勇壮な武者なり』と讃えられているそうなので おそらく かなり有力な武将だったと思われます。

ただ 彼についての史料は非常に少ないため

「山県三房」という別人ではないか?

という説もあるみたいです。


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