66話
ただ、その後、信玄は病死してしまうのですが、その後もしばらくは、織田家は優勢のまま進みます。
ところが 信長が急死してしまいます。これにより 彼の後継者争いが起きてしまうのですが(「清洲会議」です)
結果的にではありますが
弟の「織田信雄」が、その地位につきました。しかし、その後、織田信孝に追放されてしまうという悲しい結末を迎えます。(信孝も後に自殺してしまうという悲しさ)
一方、この信長の死後は信忠と信雄の間で戦が勃発します。
これは最終的に『大阪夏の陣』で終結するわけですが……。
次に、『関ケ原の戦い』について紹介していきましょう。まず、この戦いによって、それまでに築いてきた基盤が大きく揺らぎました。
(具体的には 東軍は「豊臣方」西軍は「織田幕府方」に分かれていました)
この東軍の大将である「石田三成」は「大坂冬の陣」にて 徳川家康を討ち取ることに成功はしたものの、逆に、大坂城を攻め落とされてしまいます。また、この戦いでは「真田幸村」も討ち死にしてしまいました。
(この「大坂冬の陣」では、両軍共に、かなりの犠牲者が出ています)
そして 家康が征夷大将軍に就任します。これによって、ようやく徳川家が政権を担うことになるかと思いきや、なんと、朝廷から 今度は、秀頼が天皇として擁立されてしまいました。
さらに、これに呼応するようにして
「前田家」までもが、将軍職に就くことになってしまったのでした。
(ちなみに、秀次については 後に自害させられてしまったらしいです。(これも家康の指示だったのかも))
この流れに対して、再び 三成らが反発したことで ついに戦争になってしまいました。
これが
「慶長5年(1609)の『関ケ原の戦い』であり、この戦で勝利した東軍は勝利し、「豊臣政権」が誕生することとなりました。」
そして、これ以降 日本は大きく二分されて争う時代へと突入していくのです。
なお、この時の
「三成」の働きぶりについては 、次のような逸話が残っているそうです。
「家康を追い詰めたものの、三成自身も追い詰められてしまう」
というのは、実は「三成」が裏切ったからだという話もあるそうなんですね~。
ただ これに関しては、どうなのかなぁ?という気はします。
だって いくら三成が有能でも、そこまで追い詰められるとしたら 他の重臣たちの方がもっとひどいことになっていたはずです。
まあ、いずれにせよ、 最終的には、「豊臣」が滅びるのだから ある意味「歴史は勝者の手によって書かれる」ということでしょうか?
次に 、個人的に印象に残っている合戦といえば やはり
『小牧・長久手の戦い』でしょう。
これは「徳川家康」と「羽柴秀吉」の戦です。
この戦では お互いに「決戦」を避けていたような節があります。
特に「秀吉」の方はかなり余裕があったようでした。というのも
「信長」が亡くなった後の、自分の立場は盤石なものだと自信を持っていたようです。
ただ、この時から 徐々に、徳川方に不穏な空気が流れ始めていたことも確かです。(家康自身も病気にかかってしまいますし……)
そして「長久手の戦い」が始まります。この戦も「家康」は 自ら先陣に立って 積極的に戦いを進めていきます。ただ そんな彼を
「前田利家」(家康の元配下)が諌めにいきます。(秀吉が亡くなってからは、彼と家康は、ずっと敵対していたのですね)
それでも 結局、戦いの趨勢を決めるには至らず 和睦に至ります。
結局、その後「関ヶ原の戦い」が起きるまで 両者は「和平状態」が続くのです。
ちなみに「関ヶ原の戦い」後は 徳川方の「前田利家」だけが生き残っています。最後に 今回の内容をまとめておきます。
・織田信長は「本能寺の変」により「室町幕府」を滅ぼす
・「天下統一」を目指すも、その途中で病死
・後継者争いが起こる
・最終的に「信忠」が跡を継ぐことに決定
・「大坂城冬の陣」と「大坂夏の陣」を経て、徳川家による「江戸幕府」が開かれる
・「徳川家による政治体制」の確立後、約260年の間続く(この間 大きな戦乱は起きなかった)
・やがて「明治新政府ができる」ことになります。
さて今回は、
『戦国時代の最強軍団・武田軍について』です。
武田信玄といえば、やはり有名なのが
「武田二十四将」でしょうか?
彼らはそれぞれ
『山本勘助』、『内藤昌豊』などの異名をもっていました。
この「信玄が任命」というシステムですが、「勝頼の代にも引き継がれ」ていくのですが……。(勝頼が実際に決めたわけではないらしい)
とはいえ 彼らについては 様々な伝説があるそうでして……。
(たとえば、「『四天王』は全員戦死したが、一人だけ生き残った武将がいた」とか、あるいは、「『四天王』の中でも 最も優秀であった人物は、『馬場』という名前の武将だと言われている」などといった話もあったりするそうです。
もちろん これら以外にも多くの伝説が残されているわけですが……。
しかし、いずれにしても、これらの話は真実なのか嘘なのかはわかりません。)
それでは、順番に紹介していきましょう。
1
『山県三郎兵衛尉』……『武田二十四将』『甲陽軍鑑』
2
『飯富兵部少輔虎千代』(後の『春日虎綱』か?)……『甲陽軍鑑』
3
『小山田右近衛将監』……『甲州法度之次第』
4
『穴山梅雪入道』……『甲斐国志』
5
『土屋右衛門左衛門』……『甲斐の歴史』
6
『甘利左衛門尉信広』(『甲斐源氏四宿老記伝』か『勝山記』)……『甲陽軍鑑』
7
『横田十郎太』(別名:秋山大治郎とも)……不明 以上7人となります。
まず
「『山県三郎兵衛尉』ですが 彼のことは、あまりよくわかっていません。
ただ 彼は
『武田二十四将』には入っていないものの
『信濃の国士で、最も勇壮な武者なり』と讃えられているそうなので おそらく かなり有力な武将だったと思われます。
ただ 彼についての史料は非常に少ないため
「山県三房」という別人ではないか?
という説もあるみたいです。




