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歴史という名のファンタジー  作者: みなと劉
64/255

64話

この時代、まだトイレットペーパーというものが存在していないんですよね。なので、当然のことながら、拭くものが必要となります。

そこで、出てきたのが、

紙祖師しそう』です。

『紙祖師』とは、 紙を漉いていた人たちの総称です。

そして、この人が発明したのが『手拭い』(てぬぐい)です。これを使えば、手を清潔に保つことができますよね。

ちなみに、この時代の人たちは『お歯黒』をしていたそうなので、歯も磨けるのです。そしてもちろん、口を漱げます。口臭も防げるのですよ! 次に『水洗便所』の話です。

これは、現代の私たちにとっては、至極当たり前のことなのですが、当時の人々の常識としてはありえなかったものでした。

当時、汲み取り式というものがありました。

いわゆる、「下肥」(ゲビー=堆肥の一種。家畜の餌や肥料として使われた。主に農民の使う肥料)を使うタイプですね。

この時代は衛生的ではありませんでしたので病気や感染症が流行しやすくなっていましたが、排泄物には病原菌や寄生虫が含まれている可能性があります。

その対策として行われていたのが、「お歯黒」です。「お歯黒」は殺菌効果のある黒色染料を使っており、虫歯を防ぐとともに細菌の感染を予防します。そのため、「お歯黒」をした女性は、口の中に病魔が入らないようにするためにお香を焚いて線香の煙を漂わせていたのです。お化粧と同じで、これも身だしなみの一つでした。そして、女性がお歯黒の道具として使っていたのが、小刀です。

これが、のちに「お歯黒べったり」と呼ばれるようになるのです。

さて、ここで登場するのが『紙祖師』です。

彼は、お歯黒用の墨汁を改良して「お歯黒べっとり」を開発しました。

つまり、「お歯黒」専用のお酢を作ったのです。これで、お歯黒はより長持ちするようになりました。

さらに、彼が開発した「お歯黒べっとり」は、石鹸の役割を果たすこともわかりました。

これにより、汚れたお歯黒を落として、綺麗な状態に保てるわけです。

このように、お歯黒が流行っていた時代なので、お歯黒をしていないと、とても恥ずかしかったわけです。

では、お歯黒をしなかったらどうなるかというと……

「不浄の者」「穢れ」とみなされて、お寺への出入り禁止とか、村八分にあったりしていたようです。

現代社会のように、清潔であるのが当たり前の環境ではなかったからこそ、「お歯黒」は尊ばれてきたとも言えます。

次に、歴史漫画などで描かれる「武田信玄」のイメージについて語っていきます。

・勇猛果敢

・毘沙門天の化身

・上杉謙信と川中島で死闘を繰り広げる

・越後の龍と呼ばれた村上義清を破り、北信濃に侵攻する といった感じでしょうか?

でも、実際はというと……

実は、信玄は戦が得意というわけではなかったんです。

むしろ、内政に力を入れていて、領地の開発に尽力していました。

かなりの傾奇者としても有名です。なので、軍師である山本勘助を頼りまくっていて 常に意見を求めていました。

そして、家臣たちの意見を聞き入れる度量の広さもありました。

また、意外とお茶目な性格の持ち主だったとも言われています。

なので、家臣の裏切りにも遭うのですが、それを跳ね返すだけの知略と器量を持ち合わせていました。

そして、武田家の家訓でもある『敵は味方なり、味方は敵なり』という考え方は、今でも脈々と受け継がれています。

なので、敵対する相手であっても利用できるところがあれば利用しようと考えるのも信玄の一面でもあったのです。

信玄の死後は、後継者争いの抗争が続いていましたが、やがて「義信事件」という事件が起きて、重臣の馬場信春、山県昌景らが相次いで戦死してしまいます。

そして「武田二十四将」の一人、高坂弾正こうさかだんじょう虎徹とらてつが甲斐一国を制圧してしまいます。その後、諏訪勝頼が当主となると、武田家は滅亡したのです。

信玄は、戦国最強の軍団を築き上げ、最終的には関東にまで版図を広げようとしていたのですが、結局、徳川の前に敗北を喫することになりました。

では、ここからは、 ちょっと視点を変えて 織田信長の話をしたいと思います。

『本能寺の変』が起こったことで天下統一を果たし、ついに『安土幕府』を打ち立てることになる織田信長。

しかし、彼の統治は安定しませんでした。

なぜでしょう?

信長が、あまり人の意見を聞くような性格ではなかったため、側近たちが対立し合い、『織田政権』は崩壊していったと言われています。

そこで、ここでは 織田信長という男の生涯を見ていきたいと思います。

まず、織田信長(1534年~1582年)は尾張国の武将の子として生まれました。

父は平手久秀といい、当時は無名の武士でしたが、のちに信長の重臣となります。

母は、織田信定の娘です。つまり、織田信長にとって母方の叔父にあたリます。

なので、織田信長と豊臣秀吉とは、いとこの関係になりますね。

また、柴田勝家と丹羽長秀は従兄弟同士にあたります。

ちなみに、この四人の男たちが後に

「尾張四天王」と呼ばれて、「織田信長の家臣の中でも最強」と噂されます。

(ちなみに、この「尾張四天王」は、 織田信長・柴田勝家・滝川一益・羽柴秀吉のことだそうです)

さて、この「尾張四天王」の中で、最も武勇に優れてたのは、言うまでもなく

「鬼武蔵」こと、柴田勝家でした。この男は「野獣のような凶暴さ」を持っていたことで有名でした。

そんな勝家が「桶狭間の戦い」で、今川義元を討ち取ったことにより 織田家中での地位は確固たるものとなります。

ただ、この頃はまだ、「四天王」の筆頭格ではありませんでした。

次に強いと目されていたのが、やはり「野獣」の異名を取った「槍の又左」こと前田利家です。利家は賤ヶ岳の戦いで、七本槍に入るほどの大活躍をして、一躍出世することになります。

しかし、信長のお気に入りの部類には入りませんでした。

そして、最後に登場するのが、我らが「第六天魔王」の異称を持つ「うつけ」こと、織田信長です。彼は「桶狭間の戦い」には参戦していません。そして、そのことが「うつけ」のイメージを植え付けることになりました。

では、ここで、 彼の人生を見ていきましょう。

1549年の「桶狭間の戦い」の直後に「清洲同盟」を結んだのですが、これは失敗します。そして、「美濃攻め」の「田楽狭間」の戦いでは 斎藤義龍の軍に包囲された信長の救援のために「犬山」から出陣したものの間に合わず、結果的に見殺しにしてしまったのです。(このとき、援軍に向かった諸将のうち、秀吉だけが何とか生還しています)

その後も、「比叡山焼き討ち」など過激な行動を繰り返していました。

さらに、1565年には、「京都」を制圧するために「兵を挙げよう」とするのですが

「六角」が、これに反抗しました。そして「第一次木津川合戦」が勃発し、この戦いでは三好長慶が討ち死します。

ここで、ようやく

「京」に拠点を置くことができたのです。

また、この頃には「中国大返し」を行って、山陽・山陰地方を勢力下におさめていました。

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