33話
『平安』『日本書紀』『平家物語』『和歌』『万葉集』と続いて行きます。
平安時代は貴族や天皇の時代です。天皇というのはトップの人ですね。
藤原道長が政治を取り仕切っていた時代は、藤原氏という貴族の政権争いの時でもありました。そのため、武士の台頭を招いたり、平清盛は平家一門を率いて、クーデターを起こしたりしたのですね。(1181年)ちなみにその時に、鎌倉幕府を作った源頼朝もいましたね。
そんなこんなで、日本は内乱が絶えませんでした。そこで、天皇が政治を執り行ってもうまくいかないと考えた貴族たちは、ある方法を考えます。それは『摂関』と呼ばれる『藤原一族』が天皇を補佐する政治システムです。『平氏』は朝廷の政治システムを自分たちの思うように作りあげました。これが、鎌倉時代の始まりとなりました。鎌倉は武家の時代とも言われていて、北条泰時を初代とする御家人による政権で、京都ではなく関東の武士が中心となって治めていたと言われています。
『平安時代』の『娯楽』は、『蹴鞠』や『歌会』、『双六』などの遊戯が中心でした。しかし、この頃の『音楽』の中心だったのは琵琶法師です。彼は、『平家物語』を語り、その演奏をするのが主な仕事だったのですが。その物語の中で、有名なのがあるんですよ。それは『敦盛』の話。彼は出家していて僧侶になっていたんですけど。ある時、熱田祭りに行く途中で、盗賊に襲われてしまったのです。そこで、彼は『人間50年~下天の内をくらぶれば~』という曲を歌いながら、舞いを披露しました。彼はとても人気があり、死後も祀られるようになります。
室町時代に入ると戦乱が続き、やがて天下を統一したのは室町幕府でした。その将軍には足利家出身の足利義満が就任しました。しかし、彼が行った政策には民衆は不満を抱きます。というのも税金の徴収率が異様に高くて生活が困窮してしまうほどだったから。そのため民衆は一揆を起こしてしまいます。この後に応仁の乱が起こり、戦国の世へ突入していきます。
そして、戦国時代には様々な大名が乱立します。まず、最初に出てきた戦国大名は織田信長でした。彼の出自は不明でしたが、ある日突然現れてあっという間に勢力を拡大。今川家を滅亡させ、さらに美濃も支配したと言い伝えられています。しかし、家臣の明智光秀が謀反を起こすと劣勢に立たされます。それでも、最終的には京まで攻め入り幕府を開くことに成功。その後も天下統一を目指して戦っていき、ついに全国を支配していきました。その後は秀吉と家康が台頭してきて、天下を二分するような戦いをしていくのです。
さて、ここまでは基本的な部分を説明してきました。
では、『今川義元』について書いていこうかと思います。
『今川義元』は1519年に誕生しました。そして、幼少期は『松下源吉』という人物の下で育ち、のちには織田家の配下に入りました。
桶狭間の戦いでは先鋒を任され活躍し、その後、信長の家臣になっていきました。
しかし、信長と決裂してしまい、今度は徳川家康の傘下に入るもののすぐに離れることになりました。そして、最終的には今川家の当主になってしまいます。
しかし、桶狭間の戦いで負った傷により亡くなってしまいます。
では、生い立ちを小説に置き換えて見ましょう。
『今川義元物語』
~序章編 時は流れた……。
ここは駿河国・駿河城にて。今川家当主の今川氏真は今日も悩んでいた。何故ならば、最近家臣たちが自分から離れていっているからである。
しかし、その原因がなんなのかわからない。
「殿!どうか、御一考を!」
一人の武将がそう進言した。この男の名は『岡部正綱』と言うらしい。この男は駿河の有力国人である『朝比奈家』の次男であり今川家の重臣の一人でもあった。彼は『今こそ好機ですぞ!』と言った。
それを聞き今川氏真は『一体どういうことだ?』と尋ねた。
「今こそ、三河を獲るのです」
と、言った。
その言葉を聞いて『何を言っておるか!!』と、もう一人の重臣である『飯尾乗連』という男が怒った。
「三河は松平家が代々治めて来られた土地。それを奪おうと言うのか?」
「左様。そもそも松平と我々とでは身分が違うのだ」
と、二人の武将は口論になった。だが、その最中にある人物が口を挟んだ。
「まぁ待て。二人とも落ち着くんだ」
それは今川氏真の正室の『早川殿』であった。彼女は優しく微笑んでこう言った。
「いいですか?貴方たち二人は確かに仲が悪いかもしれませんが、私にとってはどちらも大切な存在です。だから喧嘩はやめてくださいね」
と、言う。すると二人は『申し訳ありません』と頭を下げ謝り、落ち着きを取り戻した。
その様子を見た氏真は何かを決意したような表情をした。『わかった』と、一言だけ言いその場を立ち去った。
その後、今川家中では会議が行われた。その結果、三河侵攻が決定された。その総大将は今川家随一の実力を持つ武将『太原雪斎』が任命された。
数日後、今川軍は出陣の準備を整え終え、駿府を出発した。総勢1万人もの大軍で。
その頃、松平の当主は徳川家康が務めており、まだ若かった彼は家中をまとめるのに必死だった。
そんな彼に、今川軍が進軍しているという知らせが入った。
「なんだと!?そんなバカな!!」
徳川家康は慌てふためき、家臣の『酒井広親』を問い詰めた。
「なぜ、報告しなかったのだ!?」
「それは、あまりに唐突過ぎて……。ですが、これは事実です。このままですと今川軍とぶつかることになりますがどうなさいますか?」
酒井忠次は落ち着いた口調で家康に尋ねる。
家康はまだ若く、決断を下すことが出来なかった。そこで、家臣たちは意見を言い合った。
『戦うべきだ』という意見もあったが圧倒的に『逃げるべきだ』という考えの方が強かった。しかし、『徳川家』が生き残るにはもう、今川と戦うしかない。そこで、家康は『戦うべきだ』という意見を採用し、兵を準備するように命じた。
その数時間後、岡崎城を出発する前に今川軍の先発隊がやってきた。数は5千ほどであったが、その先頭には大将と思われる人物がいた。『今川義元』である。彼は『今川家当主』という肩書きの他に『大高城主』『鳴海城主』の二つの称号を持っていた。そのため、二つ名は『海道一の弓取り』と呼ばれた。
また、義元は容姿も優れていて、若いながらも非常に美しい顔つきをしていると評判だった。そのため女性からもモテたらしい。彼は『義元公の肖像画が欲しい』という女性たちの声を聞く度に自ら絵を描きプレゼントしていたという逸話があるほどだ。




