セブンティーン
それから清乃は追い詰められた壁沿いにずるずると座り込んで、その場で泣くことにした。他にできることが思いつかなかった。
最低男ユリウスは、犯罪者のくせに涙に怯む様子を見せた。さっきから垣間見せる人間臭い優しさが癇に障る。涙くらいで後悔するなら、最初から脅迫なんかしなければいい。
彼女は途中から嫌がらせも込めて、止まりかけていた涙を出せるだけ出し続けてやった。
しゃくりあげる合間にこっそりユリウスを見ると、彼も同じように床に座って、清乃が泣き止むのを待っていた。
なんだその困った顔は。困っているのはこっちだ。気遣う振りなんかしないで。
怖いのに、怒っているはずなのに、綺麗に整った顔が歪むのを見てしまうと、清乃はだんだんとほだされてきてしまう自分に気づいた。
ユリウスの言うことを信じるならば、彼は知らない場所に突然放り出されて途方に暮れているところなのだ。
多分そう変わらない年頃の男の子。自分に置き換えて考えてみると、最初に出会った人物に縋りつきたくなるのは当然のことなのかもしれない、と思い至ってしまう。
最初は彼も清乃を怖がらせないよう、穏やかに話そうとしていた。清乃が聞く耳を持たずに暴れたから、仕方なくああいう行動に出ただけだ。
そう、自分に言い聞かせるしかない。逃げられないことを確信してしまった今となっては、少しでも友好的に過ごす努力をしたほうが状況がマシになるというものだろう。
清乃はそう割り切って、のろのろと立ち上がった。テッシュを二枚引き抜いて鼻をかみ、洗面台で冷たい水を顔にかける。
彼女のその行動を、ユリウスは遠慮がちに、しかし油断のない眼で見ていた。
くそう。鼻水のついたティッシュを投げ付けてやればよかった。今からゴミ箱から拾い上げて投げるのは、あまりに間抜けすぎる。
ユリウスの存在に気づくまで、何をしていたのだったか。
清乃は泣き疲れてぼんやりした頭で、記憶を辿ってみた。
そうだ。
冷蔵庫の中身が減ってきたことに気づいて、スーパーに行って帰ってきたところだった。
視線を室内に彷徨わせれば、床に袋が転がっているのがすぐに見つかった。
真冬の室内に暖房は効いておらず、冷え切ってしまっている。買ってきた肉も傷んではいないだろう。
清乃は今更ながらに寒気を覚えて自身の腕をさすった。コートを脱いだ記憶はない。だが今清乃が着ているのはセーターだけで、気を失っている間は布団がかけられていた。
ユリウスが、そのようにしてくれたのだろう。
彼はどうしているのかと見れば、防寒着にはなりようがない詰襟しか着ていない。
戸惑ったように立ち尽くしている彼の姿に、恐怖が薄れて日常が戻ってきたような心地がした。思い切り泣いたことで、開き直ってしまったのだ。
清乃は黙ったまま部屋を横切って、エアコンの電源を入れた。
行動を制限される気配はなかった。
スーパーの袋を拾って、中身を冷蔵庫に移す。安い豚小間と合挽き肉、鶏モモ肉、鷄ミンチ、塩鮭、玉葱ジャガイモ人参キャベツ。
清乃の料理スキルでは、そういう当たり前の食材しか必要ない。これだけあれば一週間もつだろうと思っていたが、予定が狂った。男ひとり増えるなら、三日分になるかも怪しい。
食費は足りるだろうか。ユリウスが日本円を持っているとは考えにくい。生活費の要求なんてするだけ無駄だろう。バイト代は入ったばかりだが、一人分の生活費しか想定していない額だ。節約すればなんとかなるのだろうか。
彼がいつまで居座るつもりなのかにもよる。
いつの間にか清乃は、ユリウスが同居することを受け入れてしまっていて、その前提で考えている。
だって追い出し方が分からない。この部屋から逃げることもできない。携帯を取られたせいで、助けも呼べない。
そう頭の中で再確認すると、涙が勝手に溢れてきた。
「…………ふ」
ばたんと音を立てて冷蔵庫の扉を閉めるのと同時に、押し殺しきれなかった情けない声が漏れ出る。
怖いのだ。見知らぬ男も、常識を外れた話も、非力な女子大生の手には余る。
「スギタ、スギタ。こっちにおいで」
ユリウスが強引に清乃の腕を掴んでベッドに腰掛けさせた。
「さわるぞ。なくなよ」
彼はそう宣言して隣に座り、彼女の頭に手を乗せた。よしよしと髪を撫でる手付きに色めいた気配はなかったため、清乃はされるがままになった。
涙の原因はおまえだと言いたかったが、言っても無駄だと諦めてそのまま泣いた。
「キミがいやがることはしない。かえるほうほうがみつかったら、すぐにでていく。そんなにながいはしないから、すこしのあいだがまんしてくれ。おねがいだ。おれにはキミしかたよれるひとがいないんだ」
どこか違う世界から現れたと言う王子様のような若い男。
物理法則を無視した力を体感していなければ、こんな与太話、詐欺だと断じてしまえるのに。
「……やだ」
「だろうな。かんたんにうなずいていいはなしじゃない。スギタはかしこいこだ。ちゃんとしたおやにそだてられたんだな」
さっきからいちいち引っかかる言い方をする。
清乃は鼻をすすってから、改めてユリウスを見た。二十歳の彼女を子ども扱いできるような歳には見えない。
「……あんた、今いくつなの?」
「いくつ?」
「年齢。何歳?」
「じゅうななだよ」
さらっと告げられた数字に、清乃はガバッと顔を上げた。
「十七? セブンティーン⁉︎」
外国人といえば英語だろうという典型的な日本人の反応に、ユリウスは頷いた。
「Yes. Seventeen」
「子どもじゃん! なんでそんな偉ぶってんのよ」
「? ねんれいがどうした。スギタはなんさいなんだ」
「ハタチだよ、にじゅっさい! あんたの三つ上!」
ユリウスは一瞬動きを止め、眉根を寄せて目の前の女性を見た。彼が口を開く前にと、清乃は立ち上がった。
「何も言うな。聞きたくない」
西洋人の眼には、日本人は幼く見えるらしい。清乃は日本人のなかでも小柄なほうだし勘違いは仕方ないのかもしれないが、三つも下の子どもに口にされたら腹が立つ。
「日本の十七歳は子ども、未成年なの。少年法で守られるから、警察に行っても怖いことにはならないよ。多分」
「そういうものか」
押され気味になった少年を、彼はまだ子どもなのかと思って改めて見ると、顔色が悪いことに気づいた。白色人種の顔は白いものなのだろうが、血の気が失せてしまって、健康的とは言いがたい色になっている。
「……あんたその顔色は普通の状態なの?」
ユリウスは少し困った顔で小首を傾げた。その些細な動きさえも弱々しく見えた。
「いや、だいぶわるい。ねむればよくなるとおもうけど」
だが眠れば、清乃が逃げて警察を呼んでくる。
清乃は黙って青白い顔を見上げて思考を巡らせた。
このまま待っていれば、この少年はどんどん具合を悪くしてそのうち倒れてしまうかもしれない。そうなれば外に助けを呼びに出ることができる。
彼がそれを防ぎたければ、余力のある今のうちに清乃を拘束し、口を塞いで転がしておくしかない。眠って体力を回復して、改めて脅迫の続きをするべきだ。
両手足を縛るか。口には猿轡。汚部屋の特徴として見えるところにガムテープが転がっているから、体格で勝る相手の拘束は容易だろう。
だがユリウスにそれを実行しようとする気配は感じられなかった。
どういう手段であれ、長時間拘束されるのは辛いはずだ。彼には初対面の女をそんな目に遭わせるつもりはないのだ。
「…………なら寝たら? ベッドを貸してあげる」
「でも」
「追い出すのは元気になってからにするよ。起きたらご飯を食べさせてあげるから。少なくともそれまでは逃げないし警察も呼ばないよ」
疑り深い視線を見返して、清乃は大人の威厳を見せた。
「弱ってる子どもの保護くらい、大人の義務としてするよ。どっちみち、あんたはあたしを信用しなきゃこの部屋で暮らすことなんてできないでしょ。食料の買い出しに行かなきゃいけないし、あたしと連絡が取れなくなったら、親も友達もここに様子を見に来るよ」
「…………そうか」
「信用できないなら、今すぐ出ていって」
「いや、……しんようする。ありがとう」
限界がきたようだ。
ユリウスはベッドに倒れ込んですぐに目を閉じた。