ウィッチ
witch 魔女
(ひいいいいいぃぃっ)
清乃の悲鳴は声にならなかった。
アイキャンフライなんて言っている余裕はない。キャンノット! 人間が飛べるわけがない!
風圧に目を開けていられない。ユリウスにしがみついていたはずの両手がいつの間にか空になっている。
絶望感に包まれかけたとき、落下速度が急に遅くなった。雲に受け止められたような優しい衝撃は一瞬、次の瞬間には再び自由落下が始まって、それもすぐに終わった。
人間の腕に受け止められた?
「Hi, Kiyo」
おそるおそる目を開けた清乃の視界に、夜目にもチャラけた笑顔が飛び込んできた。
「フェ、リクス?」
「たすけにきた、おひめさま」
チャラい。
フェリクスに受け止められたのか。チャラ王子にお姫さま抱っこされてしまった。なんたる不覚。
山肌が剥き出しだった崖の下は木が生い茂っていて、月明かりがまばらにしか届かない。
落下中に、木の枝が何度か身体をかすめた気がする。本当にあの高さから跳んだのだ。
清乃が脚をばたつかせると、フェリクスはあっさり地面に下ろしてくれた。
「ありがとう。サンクス、フェリクス。ユリウスは?」
「アレ」
フェリクスの親指が指す方向を見ると、そこには魔女がいた。
長い長い赤い髪。
血の色? 天然であんな髪色があるのだろうか。生き物、蛇のようにうねって腰を覆っている。
黒のスリップドレスは身体の曲線を隠すのではなく強調するために着ているのだろうか。柔らかさ、たおやかさの象徴であるはずの胸は、彼女の強さばかりを表しているようだった。くっきりした鎖骨が最高に色っぽい。うっとりするような谷間、くびれたウエスト、布を内側から押し出す腰から長い脚の曲線に沿ってドレスが流れる。
つい先ほどまで彼女の腕に抱かれていた少年が、息も絶え絶えといった様子で隣に立っている。彼女の腕から飛び降りた衝撃で、脇腹の傷が痛んでいるのだろう。傷を押さえて唸っている。
魔女は赤い唇をニイと笑みの形にして、その様子を見ていた。
視線に気づいたのか、魔女が清乃のほうを向いた。
金色の瞳が、猫のように光った。
魔女だ。間違いない。彼女は魔女だ。
清乃は魔女の手が伸ばされるのを、魅入られたように見つめた。額に触れられても、抵抗しようと思えなかった。
「ふうん。そう」
何がだろう。魔女はひとり納得した顔になった。
『やめろ、魔女。オレが説明する。彼女に触るな』
『もう必要ない。すべてミた』
『くそっ』
『それで? おまえはわたしに何をさせたい』
ユリウスはもう倒れそうだ。彼を立たせたままにしてはいけない。
魔女はおそろしかったが、清乃はユリウスを支えるために一歩前に出た。その腕を掴んで止めたのはフェリクスだ。
「やめろ。キヨはあれがこわくないのか。しぬぞ」
死ぬ? 彼女に殺されるということか。
「人聞きの悪いことを。わたしは女の子には優しいよ。安心するといい、キヨノ」
彼女が日本語を流暢に操っても、不思議と疑問に思わなかった。
きっとそういうものなのだ。彼女は魔女だから。
「名前を」
「おっと失礼。あなたの名前はそこの男から聞いたんだ。わたしのことはエルヴィラと呼んでくれたらいい」
妖しいモノに名を知られてはいけないというのが物語の定番だ。この女性と名前を交換するのは良いことなのだろうか。
「キヨ。気持ちは分かるが、それは悪魔とかではない。名前くらい知られても平気だ。そこは警戒しなくていい」
立っているのを諦めたユリウスが地面に脚を投げ出し、そう助言してくる。
「エルヴィラさん……さま?」
様、のほうがしっくりくる。
『エルヴィラ。偉大なる魔女よ。頼む。上にいる男たちの記憶から、キヨノを消してくれ』
『おまえの頼みとは珍しい。いいだろう。その願い、叶えてやる』
エルヴィラの背が伸びた。否、違う。浮いた。
彼女の足が地面から離れた! そのままぐんぐん上昇していく。
空中浮遊。
箒には乗らないんだ。魔女だけど。
見上げると、黒いドレスの裾が大胆にはためいていた。中が見えそうだ。夜じゃなかったら大変なことになってた。そこは補正がかからないんだ。魔女だけど!
「キヨ、何を惚けてるんだ」
木に寄りかかってぐったりとするユリウスが、呆れた声を投げてくる。
もうすでに緊張感はなくなってしまっている。
問題は解決した、魔女が解決してくれるということなのか。
「だ、だって」
清乃は魔女が消えた上空を見上げ続けた。
「キヨ、カオがあかい。のんだみたい」
フェリクスが余計なことを言う。
「だから嫌なんだよ! あの魔女に会った女の子は、みんな同じ反応をする!」
美少年が腐っている。
同じ反応とは、この清乃の鼓動のことか。低い気温を無視して熱くなった頬のことだろうか。
「えっ待って何なに、今何が起こってる? あの方は」
「しっかりしろ、キヨノ! あれは魔女だぞ。オレのことは全力で拒否したくせに、なんなんだその反応は!」
文句が飛んできた。
フェリクスは可笑しそうに笑っている。
「キヨ、いままじょがしごとしてる。もうすぐおわる」
「仕事」
「フェリクスの仕事が甘かったんだ。キヨのことを思い出さないように処理したはずが、不充分だった。今、道路で魔女が尻拭いをしてくれてる」
そうだ。ユリウスとフェリクスとで問題を片付けた、清乃に害が及ばないように処理したという話だったはずだ。
なのに今回、清乃が狙われた。
フェリクスの失態だったというのか。礼を言って損した。
「……処理って何。あの方は大丈夫なの?」
「安心して。殺すのは最終手段。フェリクスの精神感応だ。大量の記憶を一気に流し込んで、キヨの記憶を取り出せなくしただけだ。廃人一歩手前までね。こいつがその加減を間違えたから、エルヴィラが魔法をかけ直してる」
「魔法」
超能力ですらなくなってしまった。
「魔法だよ。そうとしか言えない。あいつは別格なんだ。彼女が何をしているのか、誰にも分からない。超能力の分類なんて無意味なんだ。エルヴィラには必要ない。なんでも出来るから」
「…………それで魔女」
最終兵器みたいなものか。
登場した瞬間に物語が終わってしまうような、圧倒的存在。
確かにエルヴィラが現れた、ユリウスはそれだけですべてが終わったような顔になった。今はぐったりと力を抜き、隠す様子もなく傷口を押さえて苦しんでいる。
「あっそうだユリウス、傷。どうなってんの。大丈夫? かすっただけって、弾は貫通したってこと?」
「思い出してくれてありがとう。貫通っていうか、ほんとにかすめただけ。見る?」
「み」
たくないが、見なければ手当てもできない。というか、銃創の手当の仕方なんて知らない。
清乃は覚悟を決めて、コートの左側を開くユリウスの隣に座った。
トレーナーの脇腹部分が真っ赤に染まっている。裾をそうっと捲ると、ユリウスが小さく呻いた。痛いのだ。
「うわ」
他の言葉が見つからなかった。
「え、そんなに?」
ユリウスは珍しいものを見せてやろう、くらいのつもりだったのだろうか。男の子の考えそうなことだ。
想像したよりもエグい傷口に清乃が怯むと、ユリウスも慌てた様子になった。
「大丈夫だよ。死ぬほどじゃない。多分ね」
鞄は取り上げられていない。肩から斜めに提げたままだ。清乃は入れっぱなしにしていた生理用品を取り出して開封し、傷口に当てた。
昔読んだ本に書いてあった。止血の必要がある箇所にナプキンを当てて圧迫する。こうしておけば清潔さも保てる。
何かを巻いて固定できればいいが、包帯の代わりになるようなものは、
「あるじゃん。フェリクス、そのネクタイ貸して」
カウントダウンパーティーにでも出席していたのか。今更だがフェリクスが少しだけかしこまった格好をしていることに気づいた。ジャケットは着ていないが、チャラ男らしいネクタイを締めている。
「よごすな。きにいってる」
清乃は差し出されたネクタイを躊躇なく引ったくった。
「汚すに決まってるでしょ。あんたの可愛い従弟のためだよ」
少年の腰周りは余分な肉が付いておらず細かった。難なくネクタイを巻いてナプキンを固定し縛ることができた。
そこまでやると、ユリウスは止めていた息をどうっと吐いた。
「痛い? もう大丈夫だよ」
「痛いよ。手当てありがとう。……キヨ、キミは泣かないんだな」
「さっき派手に泣き喚いたでしょ。もう大丈夫だから」
泣きながらでは、逃げられない、走れない。車の運転もできないし、傷の確認もできない。
ユリウスは少し笑って、その振動で痛んだ傷に顔をしかめた。
「さっきから何回大丈夫と言うんだ」
「そんなに言ってないよ」
「ずっと小さい声で言ってるじゃないか。もうそんなに自分に言い聞かせなくていいよ」
痛みに耐える顔をしながら、なんてことを言うのだこの王子様は。
「大丈夫だから大丈夫って言ってるの」
「ごめん。怖い目に遭わせて。結局キミを巻き込んだ」
なんだその手は。子どものくせに、歳上の女の頭を撫でるつもりか。
仕方ないから、清乃は慰められてやることにした。
ユリウスの左手が伸びてきて、後頭部を掴まれた。おっとこうきたか。
額を彼の肩口に押し付けられて、抵抗したら傷に障りそうだからとそのまま力を抜いた。
今更ながらに身体に震えが戻ってくる。
かっこわるい。大人なのに。子どもの掌と体温に緊張が解けてしまうなんて。
ふうーと長く息を吐いて落ち着こうとしたが無理だった。歯の根が合わない。
だってなんだったんだ、今日の出来事は。
ぼんやりした子ども時代にも誘拐なんてされたことないのに、この歳になって攫われるなんて。
子ども待遇だったし。くそう。小さく育って良かった。多分それが、すごく幸運だった。
「キヨ。キミが強いひとで助かった。ありがとう。でももう、本当に大丈夫なんだ。泣いてもいいよ」
だから歳上の女を泣かそうとするな。
「……ユリウスちょっと黙ってて。フェリクスは適当に頭撫でんな」
エルヴィラが帰ってきた。処理、が終わったのか。
背負った月明かりがこんなに似合う人は他にはいないだろう。
彼女は上から降ってきたが、天使のようだとは思わなかった。
天使は、どちらかというと木の下で足を投げ出している少年のほうだ。
彼女にはやっぱり、魔女の称号のほうが似合う。
そうだ。大事なことを言い忘れてた。
「あけましておめでとう、ユリウス。エルヴィラ様、ついでにフェリクスも。Happy New Year」




