カーズ
curse 罵る
『おまえら何言ってんだ。せめて英語で喋れよ』
『服を着ろと言っている。彼女はおまえの裸に興味がないらしい』
『なんだ、照れてるのか? 俺の顔とカラダを見てほだされないなんておかしいと思った! 日本の女の子は金髪碧眼が好きだって聞いたぞ』
フェリクスが清乃を見て、わざとらしく下着に手をかけた。
もちろん清乃には彼らの言葉は分からないが、揶揄われていることくらいは伝わった。
ムカついたから、彼にも通じるよう怒鳴ってやることにする。
「Dry up! You graet prune!」
確か、口を閉じろ間抜け野郎、みたいな意味だ。
「え、キヨ、キミ喋れないんじゃ」
驚くユリウス、フェリクスは面白そうににやりとした。
「She is so adorable」
清乃の辞書にない英単語だったが、馬鹿にされているのは分かった。上等だ。
「Shut the fuck up!!」
黙れクソ野郎、くらいの意味だっただろうか。中指を立てるのはさすがにやめておいた。
言葉だけで充分だろう。英語圏の上流階級の人間なら顔を顰めるような汚い言葉を使ったと認識している。
世界の公用語、精一杯の発言、蔑みの視線。異文化間における意思の疎通、出来ただろうか。
多分伝わった。軽く揶揄ってやるくらいのつもりだったのだろう男が、弱そうな女の口から出た台詞に引いている。ざまあ。
「……喋れたのか。でもどこでそんな言葉を覚えた」
「喋れないよ。映画で覚えただけ。いつか使う機会があるかと思って」
スラングに妙な憧れを持つ年頃に観た映画の台詞だ。誰もが通る道。のはずだ。
「なぜその台詞を選んだ。もう使うなよ」
「うるさいな。じゃあお上品な英語で、さっさとその汚いものをしまえよ露出狂の痴漢野郎、ってなんて言えばいいのよ」
「……Fuck you.かな」
お上品に育っているはずの王子様が降参した。
「もう黙んなよ。そいつにユリウスの服の替え貸してやんなさい。冗談でもソレ脱いだりしたら、国際問題にしてやるってちゃんと伝えて」
「こくさいもんだい」
「あんたの従兄なら、王室関係者でしょ。日本で痴漢行為を働いてる証拠写真撮って、マスコミに流すって言ってんの」
「やめてくれ!」
「じゃあさっさとその馬鹿みたいな格好、改めさせてよ!」
朝から疲れた。
これから勤労に励まないといけないというのに。
清乃は苛立ちを隠すことなく、事あるごとに物音を立てながら朝食の用意をした。
いつもと同じトーストに目玉焼き、ミニトマト、牛乳。
痴漢野郎に提供する食事などない、と言いたいところだが、食べる物は平等に、が実家の母の教えだ。仕方無しに二枚しか焼けないトースターで男ふたり分の食パンを焼いてやり、給仕を買って出たユリウスに皿を渡す。
苛々するのはカルシウムが、とか言うが、精神安定剤には甘い物が一番だ。
自分の分とユリウスのお代わり分をトースターにセット。焼けるのを待つ間にミルクパンとココア、牛乳を用意する。
レンチンでもいいのだが、今は丁寧に淹れた美味しいココアを飲みたい気分だ。鍋を洗うのが面倒だから滅多にやらないが、今はユリウスが洗ってくれることになっているから問題ない。
「ユリウス、ホットココア飲む? そいつにも一応訊いてやって」
「うん、飲みたい。フェリクスはコーヒーって言ってるから、ほっとけばいいよ」
「分かった。ほっとく」
ふたり分のココアを牛乳で捏ねながら温め、もう少し贅沢しよう、と冷蔵庫から取り出した板チョコのひとかけらを投入する。
「甘い匂いがする」
「甘いの作ってるんだもん。先に食べてていいよ。あんたどうせもう一枚食べるでしょ」
「はい」
良い子の返事だ。これだから、面倒臭いと思いながらも食事を一品増やしたり、手間をかけたココアを作りたくなるのだ。
『なんだ、なんでおまえあの娘に従ってるんだ』
『世話になってると言っただろう! オレはそんなに礼儀知らずでも恩知らずでもない』
気を遣う気配のない歳上の男に、ユリウスが何やら抗議している。
『おまえあんな子どもがいいのか。アリシアはどうするんだ』
『っアリシアは今関係ないだろう。大体、キヨは大人だぞ。フェリクスとひとつしか違わない』
『あれで二十歳? 冗談だろ。せいぜい十四、五にしか見えない』
『……おまえそんな小さい子だと思いながらあんな』
清乃は字幕映画を垂れ流しにしているような感覚で、無心でココアを混ぜた。
『仕方ないだろ。おまえがなんか弱味でも握られてるのかと思ったんだよ。小さい我儘娘にちょっと脅しをかけてやろうと思っただけだ』
『昨日も言っていたな。なんでそんな』
『他にどんな理由がある。おまえが国に帰って来ない理由が』
カチ、とコンロの火を止めたところで、ユリウスが言葉に詰まっている様子が見えた。歳上の親族に、説教でもされているのだろうか。
『……それは』
『あの女が気に入ったなら連れて帰ってもいい。確かに小振りだが女のカラダしてたしな』
『! おまえ見てないって』
『見てない。少ししか』
『俺だって見てないのに、なんでおまえが!』
『なんだ、そうだったのか』
『そうだよ! 見てないし見せてない!』
どうしたユリウス。追い詰められて逆上したのか。
助太刀が必要だろうか、と考えながら、清乃はマグカップに注いだココアを持ってふたりに近づいていった。
『俺は見たし、大体見せたぞ』
『このやろ……っ』
「Will you be my girlfriend?」
軽薄な視線で見上げられ、嫌悪感に鳥肌が立った。俺と付き合わない? なんてどの口が言うのか。
「その中身のない金パ、ココア色に染めてやろうか」
反射的に言い返すほどの英語スキルがないことが悔やまれた。
フェリクスはノーダメージ、代わりにユリウスがドン引きしている。お坊ちゃんめ。
奴が熱いココアを頭からかけられても仕方ないことを言ったのだ。正義は我にあり。
もう一度渾身の英語スラングを投げ付けてやろうかと思ったが、それもユリウスのほうがショックを受けそうだったからやめておいた。
「キヨ」
「うるさい。あんたの従兄でしょ。ちゃんと躾けといてよね」
その日の本屋アルバイトは十時から十八時まで、社員並のシフトだ。一年の春から始めたから、もうだいぶ慣れたものだ。
制服のネクタイを締めて、上からコートを着る。寒風に身をすくめながら自転車に乗って十五分。
今朝ユリウスは何も言っていなかったが、このままフェリクスに連れられて帰国するのだろう。
家を出る前に何度も「あたしもう行くよ」「もうバイトの時間だから」と最後の挨拶をするよう促したが、彼はそれに気づかない振りをした。
服が乾いたらフェリクスは追い出すから安心して。なんて、どうでもいい。いや、大事なことだが、口にするまでもない当然のことしか言わなかった。
パスポート、持って来てもらったのかな。入国記録のない外国人が出国することってできるのかな。あ、部屋の鍵。開けっ放しで出ていく気か。不用心な。とか、色んなことを考えながら働き、ふっと大事なことを思い出す。
まだ口座番号教えてない。
立て替えてやった生活費。帰国前に振り込むって約束。
多分まだ、ユリウスの出した手紙は届いていない。助けを求める手紙を読む前に、フェリクスが超感覚的知覚によって従弟の居場所を突き止めた。
五万円の約束は知らなくても、外国に行くなら多めに現金を持っているはずだ。なんと言っても異国の王族。セレブだ。コタツの上にでも置いておいてくれたらいいのだが。
Thank you, Kiyono. くらいの置き手紙はあるだろうか。
昼食は用意しに帰ってやらなかった。
日本の大学生よりも保護者として相応しい人物が現れたのだ。必要ないだろう。
今日からまた清乃は、暗い部屋に帰ることになるのだ。




