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インベーダー

invader 侵入者

 物音がして、磨りガラスの扉の向こうに人影が見えた。

「ユリウス? 大丈夫、溺れてないよ。今から出るから」

 酔っ払いを心配してきたのかと、清乃は苦笑混じりに声をかける。

 人影は動きを止めなかった。

「ちょっと、ユリちゃん? 開けないでよ?」

 制止する声を無視して、扉が動く。

「⁉︎」

 清乃は咄嗟に浴槽の中で身を縮めた。

「あんた悪ふざけが過ぎるよ……っ⁉︎」

 現れたのは、ユリウスではなかった。

「Hi」

 軽い挨拶と共に片手を上げたのは、見知らぬ男だった。


「え、えっ?」

 混乱した清乃のできることは、浴槽に張り付いて身体を隠すことだけだった。

「      」

 男が何かを喋った。多分英語。

 ヒアリングに集中する余裕がないから、内容は分からない。

 聴いてやる義理もない。

 清乃は右手で掴んだ洗面器を水面を撫でるように滑らせ、掬った湯を侵入者の顔目がけてぶちまけた。

「Oh!」

 男が驚いて顔を庇い、後ずさった。その隙にシャワーを掴み、水栓を全開までひねる。

 温度調整のツマミはC、冷たい水だ。

 真冬の日本、まだ暖まっていない部屋で冷たいシャワーを正面から浴びた男は悲鳴をあげて更に後退した。

 罵る言葉が見つからない。清乃は無言でシャワーを男の顔面に向けたまま浴槽を出ると、浴室の戸を音を立てて閉めた。中折れ戸には一応鍵が付いている。

 施錠の音はカチ、と軽く、頼りなかった。

 清乃は全力で扉を押さえた。

 今ほど小さい身体を呪ったことはない。背の高い男を相手に扉を死守する自信なんてない。

 部屋にいるはずのユリウスはどうしているのだ。何故来てくれない。疲れて寝てしまったのか?

「Hey, girl」

 気負いのない軽い口調。いたぶっているつもりか、男は扉をガタガタ揺するだけで本気で開けようとしない。

 清乃は震える声を励まして助けを呼んだ。

 大丈夫だ。今清乃には、助けてくれと叫べば来てくれるひとがいる。

「ユリウス! ユリウスユリウス! たすけて!」

 ふいに、磨りガラスの向こうの人影が消えた。

 え、と思った次の瞬間だ。


        どん っ


 鈍い音と共に、部屋が揺れた。

「キヨ!」

 ユリウスの声だ。

「……ユリウス?」

 恐る恐る顔を出すと、そこには複雑な顔をした少年の顔があった。

 強い怒りと恐れ、混乱、安心、また怒り、ユリウスはいくつもの感情をごちゃ混ぜにしながら、短い時間で順番に表情に出していった。

「キヨ。無事か。何があった」

 清乃が顔しか出さない理由に思い至ったのか、ユリウスはそれ以上近づいて来なかった。

「分かんない。急にそいつが、」

 そいつ、の姿がない。あいつはどこに行った。

 ユリウスは流し台の前に立っていた。キッチンスペースの、ちょうど真ん中。

 清乃から見える範囲に男の姿はなかった。


『ずいぶんな挨拶だな、ユリウス』

 部屋のほうから声がした。英語ではない、清乃にはどこの国のものかも判別できない言語。

 でも多分、その声はユリウスの名を呼んだ。

『自分が何をしたか分かっているのか』

 ユリウスの喋る言葉も分からない。ふたりの間では会話が成立しているようだ。

 男は、ユリウスの国から来たのか。

『まだ何もしていない。する前におまえに吹っ飛ばされた。その女はおまえのなんなんだ』

『……殺されたいようだな』

     だぁん っ

「ひっ」

 再び建物ごと空間が揺れた。

 アレ、だ。

 超能力。念動力。初日に見せられたあの力。

 あの力を使って、ユリウスが侵入者を攻撃しているのだ。

 ユリウスが部屋のほうへ歩いて行き、浴室から出られない清乃の視界から消えた。

 清乃にできることは何もなく、また言うべきことも思いつかなかったため、黙ってそれを見送るよりほかなかった。


 浴室でじっとして争う声と物音を聞いていたが、ほどなく静かになった。

 物音がしなくなっても、清乃はしばらく風呂に浸かってじっとしていた。

 自分でも呑気が過ぎるとは思ったが、寒いのを我慢する理由などないか、と開き直ったのだ。

 あの男は多分、ユリウスの関係者だ。名前を呼んでいたし、激怒していたユリウスに緊迫感はなかった。

 それに、男のほうが一方的にやられているようだった。心配する必要はないだろう。

 温まり直してから中折れ扉を少しだけ開けて耳を澄ましてみる。聞こえるのは電化製品のブーンという音だけだ。


「……ユリウス? いない、よね?」

 返事は返ってこない。物音もしない。

 床に直接置いていたタオルとパジャマはびしょ濡れだ。

 洗面台の下から代わりのタオルを取り出して体を拭き、部屋まで走ってタンスから服を引っ張り出した。夜ではあるが下着まできっちり着けて、ロンT、ジーンズに厚手のカーディガンを羽織る。

 やけに寒いと思ったら、部屋の窓が開いている。ふたりはここから出て行ったのか。

 念のために窓の下を見てみるが、一階の部屋から漏れる電気と街灯が浮かび上がらせているのは駐車場の車だけだ。人影は見当たらない。

 窓の鍵は閉めてしまっても問題ないだろう。ユリウスが帰ってきたら玄関の鍵を開けてやればいい。万が一あの男がひとりで戻ってくるようなことがあれば、即通報してやろう。

 日本の警察は優秀だ。ものの数分で駆けつけてくれるはずだ。

 その警察が今このアパートに来ていないということは、先ほどの騒ぎはご近所さんにそこまで不審に思われなかったということか。学生の多い地区なのが幸いした。夜中に騒ぐ学生というのがたまにいるのだ。その類いの騒ぎだと思われたのだろう。

 部屋を見渡すも、異変らしい異変は見当たらない。強いて言えば、そこここに水滴が落ちているくらいだ。あのノゾキ魔にぶっかけてやった冷水シャワーだ。あいつはきっと、ユリウスの力で部屋の端まで吹っ飛ばされたのだ。

 少なくとも室内で格闘だとか異能力バトルだとかいったことが行われた跡はない。

 あの優秀な少年が気を遣って、表へ出ろ、とやったのだろうか。

 もうすぐ、変質者を倒してきたと誇らしげな顔で報告しに帰ってくるかな。


(……あれ?)

 あの男はユリウスの国の人間のようだった。彼を迎えに来たと考えるのが自然だろう。

 ユリウスは、この部屋に帰ってくるのだろうか。




 その夜はいくら待っても、ユリウスは帰って来なかった。

 清乃は最初彼の身を案じ、次いで不信感を覚えはじめ、最後には腹を立てて頭から彼の存在を追い出そうと試みた。

(あのやろう。迎えが来たからって、挨拶もせず黙って帰ったんだ)

 それならそれでいい。居候が居なくなるなら願ったりだ。

 自宅で気を遣うことのない、気ままなひとり暮らしに戻ることができる。


 気持ちを切り替え、ベッドに寝転がって読みかけのまま放置していた小説を開いた。

 この一週間、食事作りや他人との会話に時間を費やすことが増えたため、至福の読書タイムが激減していた。

 最後に読んだページの記憶が曖昧になってしまっている。

 歴史小説の権威が書いた近代物だ。天気晴朗ナレドと言った人が出てくる話、というぼんやりした知識しかないまま読み始めたのだが面白い。古本屋で全巻揃っているのを見て衝動買いした古い本。

 遡って読み直し、一巻を読み終わったときには日付が変わってしまっていた。

 明日、というより今日は日曜日。朝から本屋のアルバイトのシフトが入っている。もう寝なければ。

 玄関も窓も、施錠せずに寝るのは不安だ。


 ……ユリウスは、本当に国に帰ったのだろうか。鍵をかけてしまったら、部屋に入れなくて困るだろうか。

 あの男が彼の迎えというのは清乃の勘違いということはないか。今頃酷い目に遭わされていたりはしないだろうか。


 もしそうだとしても、清乃に何ができるだろう。

 格闘技の経験もない非力な身で、暴漢から少年を助け出すことなんてできない。そもそもどこへ行ってしまったのかも分からない。当てもなく夜道を探し歩けば、別のトラブルに巻き込まれる可能性も出てくる。

(黙って行っちゃったら分かんないよ、ユリウス。何かひと言言う余裕くらいあったでしょ。あたしにどうして欲しいの?)

 警察を呼ぶべきか。それとも彼は帰国したものとして、この一週間のことを忘れて欲しいのか。

 正解を見つけられないまま、清乃は現実から逃避するような行動を選んだ。

 電気を消し、布団をかぶって目をつむった。

 眠りにつく前、三つ下の、ユリウスと同じ歳の弟のことを同じように心配した記憶が蘇ってきた。

 当時中学生だった弟は父親と派手な喧嘩をし、殴り殴られ、夜中に家を飛び出していった。

 清乃は最初は呆れ見て見ぬ振りをしたが、深夜になってからも帰ってこない弟を心配した。

 あのときも不安な気持ちのまま眠りにつき、翌朝何故か清乃の部屋の隅で弟を発見したのだった。

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