ファーストコンタクト
杉田清乃は汚部屋の住人である。
ひとり暮らしの男子学生の部屋は汚いというのが一般論なのかもしれないが、ズボラ女子大生の部屋だって大概なものだ。
清乃は身長も体重も日本人女性の平均に達する前に成人してしまった。小柄、短めボブの黒髪、頼りない印象の童顔、おとなしやかな外見の女だろうと、片付けられないものは片付けられないのだ。
田舎の公立高校を卒業後、地元を離れて多少は都会的な街にある国立大学に進学、ひとり暮らし二年目の二十歳、というのが現在の彼女のプロフィールだ。
大学ではそれなりに友人はできたが、彼氏がいたことはない。だが別に困ることはない。不自由も感じていない。
ぼんやりした田舎者の娘を心配した両親が、キャンパスから少し離れた小綺麗なアパートを探して借りてくれた。友人が訪ねてくることは滅多にないから、部屋が散らかっていても、唯一の住人である清乃が困らない限りは問題ないはずだった。
そのはずだったのに。
スーパーの袋を提げて帰ると、部屋の中央に見知らぬ男が立っていた。
施錠には気をつけていたはずだ。
先ほども鍵はかかったままだった。確かに自分の手で鍵を開けてから室内に入ったのだ。
(なんなの、こいつ誰なの、どうやってどこから入ってきたの、何してんの、ひとんちで!)
清乃はジリジリと後ずさりした。
不審者に背を向けるのは、多分やったら駄目なことだ。
それが何故か放心している相手なら尚更だ。酔っ払い、という感じではない。まさかクスリでもやっているのか。
急に動いて刺激してしまったら、逆上してぶすり、とやられる可能性がなきにしもあらずな気がする。
気がする。
不確かだが仕方がない。
生まれてこのかた、事件らしい事件に巻き込まれたことなど一度もないのだ。
何故。なぜ、どこから、金も美貌も色気も、恨まれる覚えすらない女子大生の部屋に、この男は現れたのか。
いや、こういう奴らにそんな理由など必要ないのだ。
そこに自分より弱そうな人間がいて、自分の欲しいものを持っている。それだけの理由で欲望を満たすために動くのが犯罪者だ。
清乃は床に散らかった鞄を慣れた動作で避けて、更に後退した。途中、踵に小さい物が当たる感触がしたため、踏まないよう慎重に足を後ろに退げた。
後ろに玄関がある。出口を抑えられていないのは、不幸中の幸いだった。
侵入者はまだ視線の定まらない様子で周囲を見回している。
間違いなくやばい奴だ。
それでも差し迫った危険は無さそうだと、清乃は少しだけ落ち着いてその侵入者を観察した。
金髪碧眼。
たまに見るヤンキーのパサパサ金髪じゃなく、サラサラのプラチナブロンド。こんな綺麗な天然物の白金髪、北欧のほんの一部のひとしか持ってないんじゃなかったっけ。
瞳の青は多分おそらく、カラコンとかじゃない。天然の色だ。
だってカオの造りも金髪碧眼だ。
……ちょっと待て。落ち着け文系大学生。言語機能が働いてない。
結論としてはつまり、こいつは少なくとも純粋な日本人ではないということだ。
大学には何人も留学生がいるが、ほとんどがアジア系で、こんな派手な外見の学生は見たことがない。
金髪碧眼、白色人種、スクリーン上でもなかなかお目に掛れないような、正統派美形。
何故こんな、いろんな意味で人種の違う清乃の部屋に現れたのだ。金に困って強盗を働くようには見えない。高貴、と言えばいいのだろうか。
王子様、というのがしっくりくる。
着ているものも白を基調とした詰襟で、お伽噺か漫画にでてくる王子様そのものの佇まいだ。
彼が現れた場所が自宅でなければ見惚れたいくらいだ。
下賤の、清乃のような駄目人間の部屋に押し入る理由はない、ように見える。
だが現実に、このキラキラした生き物は清乃の部屋に無断で侵入しているわけだし、そんなことをする輩が悪いことを考えていないわけがない。
三十六計逃げるに如かず、とはこういうときに使う言葉なのだ。きっと。
真冬の寒さをものともせず、脇を嫌な汗が伝う。
床に積んだ本に踵が当たり、大きな音を立ててしまった。
(!)
音に反応した侵入者が、茫洋としたその瞳に理性の色を宿した。
清乃はこっそり動くのを瞬時に諦めて、玄関扉に飛びついた。
が、
(なにこれ、何これ!)
身体が動かなくなった。
見えない手で拘束されたかのように、足を動かすことができない。
それとは反対に把手を掴んだ手が清乃の意思と無関係に動き、玄関から遠ざかって身体の側面まで戻ってきた。
自分の身に何が起こっているのか、彼女には分からなかった。
動揺のあまり手足が震えて、とかそういう次元の話ではない。身体が持ち主を変えたかのように、清乃の脳が発する命令が全身に行き渡らない。
こわい。
震えることすら、腰を抜かすことすらできないとは、どういうことだ。
表情を変えることはできるようだ。清乃は耳が捉えた足音に顔を歪ませた。歪ませることができたために、そのことに気づいた。
恐怖に涙がにじむ。
背後から男が近づいてきている。なのに、清乃の足は微動だにしない。
(たすけて。お母さん、お父さん、先輩先生店長お巡りさん! 誰でもいいから助けて!)
そう心の中で叫んだのを最後に、清乃の意識はぷつんと途切れた。