1話08
「そういえば、その毒に関してなのですが……いったいどのような物なんでしょうか?」
コムさんは、喜屋武さんの遺体が頭を伏せているデスク上のグラスを指しながら、こちらは普通に動いている喜屋武さんに尋ねました。
「それはですな……まったくもって遵法精神に欠ける行いではあるのですが、会社から拝借した物なのです。こっそりと会社の保管庫にあった小瓶を持ち出しましてな。いや。いやはや、当時の毒物劇物取扱責任者には申し訳ない事をしたものです」
ああ、確か化学系の企業の社長さんだって言ってましたもんね。そして、その会社からこっそり持ってきたと……。
「理解の範疇を超えていると思われるかも知れませんが、何か危険なものを手元に置いておきたいと思いましてな。男のロマンとでもいいますか……いざ、儂の余命が長くないとなったら、これを使って楽にしてくれなどと、妻には冗談で言っておったものです、ガハハ」
「僕は理解できますよ。僕も現世の時にはタクティカルペンを肌身離さず持っていたものです」
うわ……コムさんが共鳴しちゃいましたね。コムさんが厨二病の罹患者だったとは知らなかったです。ちなみにタクティカルペンというのは主に、銃器製造メーカーが制作したペンみたいです。ペン先の逆端が硬い素材で尖った形をしているそうで、護身や避難時にガラスを割るなどに利用できるそうですよ。はい……私は全然興味ありませんけど。
「まあ、その毒に関してですが……こっそり拝借しておきながら、実は儂も、その毒については何も知りませんでしてな。とはいえ、この身を持って体感した今なら理解できますぞ。おそらくは蛇から採取したものでしょう……神経毒と出血毒の両方を含むんでおったのです。思い返せば、まずは神経毒が麻痺、呼吸の困難を招きまして……そして出血毒が細胞を破壊する事で臓器から出血をもたらすのです。なんにせよ、そこに座る儂の遺体の死因であることは言うまでもありませんな」
なるほど。PCを前に頭を伏せ絶命している遺体と吐血跡。
多分ですが、毒で呼吸が苦しくなり必死に呼吸を試みるも……その行為が臓器からの出血の逆流を招いたんでしょう。その後……呼吸の為に喉元に当てられていた手は、吐き出された血液を抑えようと口を抑え……血に汚れる。そして、それが後の絶命の際にディスプレイに血が付いた理由となるんですね。
しかし、いくらよく知らなかったとは言っても……これを使って楽にしてくれと言っていた毒が、実は酷く苦しみを伴った死をもたらす物だったというのは……笑っちゃいけないですけど、少し皮肉めいています。
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「夜の9時頃ですかな。執筆作業に取り組んでいた儂は文章の訂正にひどく頭を悩ませておりました。それにひと段落つくと、儂は呷るようにして傍らのワインを飲んだのです。その時……同室していたのは妻のみでした。」
喜屋武さんは自身の死、毒を飲んだ時の状況を話してくれています。どうやら奥様が部屋にいたみたいですね。
「唐突に儂が苦しみだしたのを見た妻は、スマートフォンを放り出すとベッドから身体を起こしたのです。そして、儂が吐血をしたのを見ると悲鳴を上げましてな。その悲鳴を聞いてか、使用人がこの部屋に向かってくるような音が聞こえておりました。妻もデスクの所まで近づいておりました。ですが儂の意識は急速に失われてゆく。そして、この手がディスプレイに血糊を残し、使用人が部屋へ入ってくるのを認識したあたりで……儂は死への旅路を歩み始めたのです。まさか着いた先に、このような世界があるとは思いも見ませんでしたな」
「ええと……使用人がお部屋に来られるまでは、どれくらいの時間がかかったのでしょう?」
コムさんが情報を引き出そうと質問を投げかけました。
「そうですな……悲鳴が上がってから三十秒はかからない……二十秒ぐらいでしょうな」
陰鬱な話に沈んでいるだけではダメですね。私も情報の引き出しに助力するとしましょう。
「えっと、ディスプレイの事なんですが……お亡くなりになられた時に、例の遺書はディスプレイに表示されていたんですか?」
「例のお恥ずかしい遺書紛いの代物のことですな。儂が死んだ瞬間にはディスプレイに映っておりましたぞ。ですがワインを飲んだ時点では、このような文面はありませんでしたがな」
えっと……死んだ時点では例の遺書はディスプレイに映っていた。でも、ワインを口に含んだ時点では映っていなかった?
いったいどういう意味なんでしょう。およそ二十秒の間に現れた遺書の謎、これには興味を引かれますね。
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「使用人の方がおられるとのことですが……どのような方なのでしょう?」
コムさんが質問を続けています。謎が深まった感のある、この状況を打開する為にも新たな登場人物……そこを探ろうというのでしょうね。
「ふむ、使用人ですか。我が家では2名ほど雇っておりまして、伊里・朴と言います。儂が妻の不在時に執筆をする際の補助を頼んでおりました。とはいえ、目が不調な時に補助を頼むか、ワイン用に氷を持ってきてもらう程度でして……普段はこの部屋の近くを使用人部屋にしており、そこに待機しておるだけでしたがな」
「当日、悲鳴に気づいて来られたのはどちらの方でしょうか?」
「伊里ですな」
「もう一人の方は、当日は?」
「非番です。基本的には1名づつで交代して入ってもらっておりましたのでな」
使用人の事を尋ねるコムさんと、それに回答する喜屋武さん。ですが私には、その会話があまり頭には入ってきません。なぜかというと、ここまでの情報量がいっぱいいっぱいでそれどころではなかったから。というのは冗談でして……そろそろ出揃ってきた情報をまとめるのに、頭を回し始めたからなのでした。
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結局の所……この話の実態って、いったいどんな事が起こったんでしょう。
喜屋武さんの死の時期は本来の死の半年前。精神的にどん底な時だったとしたら自殺の可能性が高いと思うんですけど……死んでしまった時には奥さんとの関係性は改善していたようで、自殺というのには疑問符が付きます。
じゃあ、他殺……奥さんが毒を入れたというのならありえるのかも知れません。例えば、遺産目当てとか……でも、それだったら身体的な不調を抱える喜屋武さんの寿命が切れるのを待てばいいわけですから……いや、待てない理由があったのかもしれないですけど、その理由には思い当たるところがありません。
そして問題の遺書。古めかしい文章からしても喜屋武さんが書いたのだと思います。でも、何故それがディスプレイに表示されていたのでしょうか……。
まとめますと……ディスプレイに表示されていた文章は自殺を匂わせています。しかし、それは死の瞬間にはディスプレイに映されていたけど、毒を飲んだ時点では、そんな文面は無かった。それでは……他殺だったとしたならば、その文章は自殺を偽装したものなんでしょう。使用人が来るまでの20秒程で何らかの偽装がなされていたとすると……犯人は奥さんなんでしょうが、やはり、そこには動機が見当たりません。
うーん……結局、わからないですね。
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しばらくの間、私は頭の中で思考をグルグルさせていました。すると、その時……
「今にして思えば、最期の力を振り絞り……厠へと辿り着いてから、生命絶えたのであれば悔いはありませんでしたのにな」
いきなり喜屋武さんが、意味不明な事を言い出しました。
「厠って、トイレの事ですよね……。なんでトイレなんです?」
トイレが落ち着くからとか言われたら……私、どんな顔をしたらいいのかわからないです。
「厠で死んだ例として、上杉謙信やエカチェリーナ2世、エルビスといった歴史的な偉人がおりましてな。せめて儂も死に場所くらいはあやかれたらなと思いましてな、ガハハ」
喜屋武さんは破顔一笑します。そして、表情を戻すと……堂々たる態度で言いました。
「さあ、儂の話はここまでです。ここからは皆さんの出番ですぞ。犯人が誰だとか難しいことは考えず、儂の滑稽にして珍妙な死の物語とはいったいどんなものであったのか……それを考えてみてくだされ」
喜屋武さんが持参してくれた話は、ひとまずここで休止符が打たれたようです。
うん。面白くなってきましたね……喜屋武さんの話を聞いて生まれた謎や違和感。じっくりと時間をかけて推理してみましょう。
そう、それを考えて時間を費やす事こそが、我々……この世界の住人の最大の楽しみなのですから。