3話14
こちらの世界の住民の私達には死が訪れることはありません。なぜならば、それはもう経験済だからです。
とは言え……いくら死ぬことがないとは言っても、ここは片側が絶賛炎上中の密室です。現世ならば刻一刻と酸素が消費されていくのでしょう。そしてそれは、自身の死へのカウントダウンとなるのです。私はその必要がないにも関わらず、焦燥感に駆られました。そして、そのような焦った精神状態は、謎解きに対して……余りにも無力だったのです。
私の焦燥感は、足元に火がついた状態、もしくは尻に火がついた状態と例えるのが適切なんでしょう。だって、まさに火がついているんですから。そして、そんな状況では思考はまとまりません。だから、しょうがなく……思いついただけのありきたりの意見を口にします。
「そのナイフを使って……自殺したんでしょうか?」
乃済さんからは反応がありません。すると、彼女はコムさんの方を見ました。きっと……コムさんの答えを要求しているのでしょう。
「……わかりません」
コムさんも何らかの着想を得ることが出来なかったみたいです。彼は無念そうに……そう発しました。
━・━・━・━・━・━・━・━・━・━・━
コムさんの降参を耳にした乃済さんは、これまでの無表情から打って変わり、美しい微笑みを浮かべました。そして、私達に語り始めます。
「このナイフで……私が自殺をする。それも一つの結末としては正解なのかもしれません。自分の死は自分で決める。恵愛の殺意に対して、せめてもの対抗心でしょうね。ですが……私、そこまで諦めの良い人間ではないんです。先程の壁の文字、【水都の忌日】ってありましたよね。だから、私……思ったんですよ。忌日を今日にしてやるのは癪だから生き延びてやろうって」
気づくと、美しい微笑みは不敵な笑みへと変化していました。
「ですから……私は、このナイフを自分に用いるつもりはありません。どうせなら恵愛を突き刺してやりたいんですけど、その前に刺すべきものがあるんです」
言い終わると……乃済さんはナイフ片手にトレーラーハウスの壁面へ向かいました。そして、その場にかがみ込むと……トレーラーハウス下部に取り付けられていたタイヤへとナイフを突き刺したのです。タイヤの表面のゴムは硬く、ナイフはなかなか刺し込まれていきません。それを力いっぱい捻り込む乃済さん。少しの奮闘の後、タイヤから破裂音と空気の抜ける音が聞こえてきました。
それから、乃済さんは残されたタイヤの一つ一つへと足を運ぶと……ナイフを突き刺し、捻りを加えパンクさせていくのです。彼女は息を切らせ、額には玉のような汗が浮かんでいます。その姿からは彼女の文系女子的な雰囲気は思い出せません。
私は、彼女のそんな姿を見て感じ入るものがありました。普段の乃済さんの容貌は悔しいですが美しいです。でも、今こうして必死になって……生きようと、もがき苦しんでいる姿。こちらの姿の方が美しいのかもしれない。なんだか……そんな風に思えてきたのです。
━・━・━・━・━・━・━・━・━・━・━
数個のタイヤから空気が抜けていった時点で乃済さんの行為の意図は把握できました。その意図とは、トレーラーハウスの車高を下げることだったんです。それは、ほんの数センチ程度。でも……それで十分でした。トレーラーハウスの天井部分とコンクリートハウスの天井部分は高さがピッタリと揃っていたのですが、パンクでトレーラーハウスの背丈が下がることにより、ズレが生じたのです。そして、そこからは……新鮮な外気が供給されてくるのでした。
「これぞ……恵愛に対して一矢報いた、私なりの乙巳の変です」
まだ息の荒いままですが、乃済さんはそう言うと笑顔を見せました。満面の笑みです。
乙巳の変と言うのは大化の改新の前段階の出来事です。蘇我氏の専制に反発した中大兄皇子と中臣鎌足が首謀し、蘇我入鹿を宮中で殺害した事件ですね。更には入鹿の父の蝦夷も誅されました。おそらく乃済さんは乙巳と一矢をかけただけではなく、恵愛さんの殺意・殺害計画への反発への意味も込めていたのかもしれませんね。
ですが……まだ、これで終わりではありません。続きがありました。これに関しては相手の方が一枚上手だったようです。乃済さんの放った【一矢】に対応した【二の矢】が……こちらに向けて放たれてくるのでした。
━・━・━・━・━・━・━・━・━・━・━
車高が下がった事により、天井にはトレーラーハウスの天井と同じサイズの穴が開いています。わずかですが……外も見えていますね。残念ながら夜になっていたようでして、陽の光は拝めませんでした。
しかし、トレーラーハウスの車高の低下はたったの数センチ。その程度の隙間では、そこを通って外へと脱出することは不可能でしょう。私は、なんとかして他に脱出できる方法はないのだろうか、それに思案しようとした……その時です。
上方の穴から大量に水が流れ込んできました。その水は勢いよくトレーラーハウスの天井に当たると、二つの密室へと飛び散っていくのです。私やコムさん、そして乃済さんにも大量の水の飛沫が浴びせられました。私達はびしょ濡れになってしまう前に、トレーラーハウスの中へと避難する
のでした。
急いでトレーラーハウスに逃げ込んだ私達ですが、びしょ濡れとはいかないまでも……服が身体に張り付く程度には濡れてしまいました。私のお気に入りの真っ赤なフリフリのワンピースも、濡れた事で赤みが濃くなっています。これ……遠目から見たら茶色に見えるんじゃないでしょうか。コムさんの薄青色のワイシャツもピッタリと張り付いていますね。誰得案件です。そして問題は……乃済さんでした。薄手のカットソーは濡れると透ける。あざとい、ホントあざとい。この水が流れ込んでくる展開まで考慮して、このカットソーを選んだのだとしたら……ホント恐ろしい女ですね。
私は自身の服装を、乾いた物へと具現化し直しました。コムさんもです。乃済さんは知らん顔していました。
そうこうしている間にも、流れ込んでくる水は水位を上げていきます。そして時の経過と共に……その深みをを増していきました。
━・━・━・━・━・━・━・━・━・━・━
気づけば、決断の時が来たようです。遂には私の足の届かない高さにまで水は貯まっていました。こうなると物の多いトレーラーハウス内にいては身動きが取りにくくなってしまいますね。私はトレーラーハウスの外へ出ると……そこで仰向けに浮くことにしました。そして……この状況から脱する方法を潜思するのです。はい、浮きながらも潜思しました。
しかし、いくら考えようとも妙案は浮かんできません。私は浮かんでいるのに皮肉なものですね。その間にも水位は上がっていきます。気づけば、コムさんと乃済さんも私同様……飛沫を顔面に受けながら仰向けに浮かんでいました。傍から見ればシュールな光景ですが、これは明確に死へのカウントダウンを意味しています。私は再び……この状況を打破する手段を考え始めました。
三人寄れば文殊の知恵とも言いますし、アイデアが浮かぶとも言います。しかし三人揃って浮かんでいたにも関わらず……誰からも妙案は出てきませんでした。そして、天井まで残り30センチ程へと迫った時……突如、水の流入が止まりました。
「水……止まったんでしょうか?」
私は状況を声に出してみました。その声は、残りわずかな空気中に反射すると周囲に広がっていきます。
「止まったね」
コムさんから反応が帰ってきました。その声も反射して聞こえてきます。
「皆さん、こっちへ来てみてください。面白いものが見えますよ」
それに続いて、乃済さんの声が響いて聞こえました。彼女は外界との唯一の接点、先程まで水が流入してきた隙間へと泳いでいきます。達者な平泳ぎでした。それに私とコムさんも続きます。私は不格好な犬かきで、コムさんはよくわからない古式泳法ですね。多分、着衣水泳に向いているんでしょう。
私達は、わずかに開かれた隙間に到着しました。その先には外の世界が見えてはいるのですが……私達には果てなく遠い世界に思えます。私は隙間から、外の世界に渇望の眼差しを向けていました。その時です。
急に、私の眼前に……大きく見開かれた双眸が現れたのです。
「うわぁあぁぁっ!」
私は、あまりの恐怖に大声で叫んでしまいました。なぜなら、その両目は恵愛さん……いや、般若の目だったんです。
その瞳は血に染まったかのように赤黒く……瞳孔の奥からは深い憎悪の念が伝わってきました。そして、それは私の背筋を凍らせます。憎悪は次第に怨讐へと変化していくのです。その強烈な悪意を身に受けた私は、身体から力が抜けていきました。そして全ての悪意は殺意へと集約されると、それは私に絡みついてくるのです。私の身体は水底深くへと引き込まれていきました。私は必死にもがくのですが……思うように力が入りません。私はようやく動かすことの出来た片腕を伸ばすと、小さな手のひらを水面へと伸ばしました。
その時……私のよりも大きな手が差し伸べられてきたんです。それはコムさんの手でした。彼は私の手を包み込むように握ると、水面へと引き上げようとしてくれるのです。しかし……執拗な殺意に絡み取られた私は、なかなか水面へと辿り着きません。すると……私のもう片方の手が握られたんです。それは乃済さんの手でした。コムさんと乃済さんは協力して、私を引き上げてくれました。
お二人の助力によって、水面へと顔を出した私は……大きな呼吸で酸素を取り込みます。気づけば、もう般若の目は見えなくなっていました。その目があった場所には外の闇夜が見えています。ですが……急に、その闇夜は見えなくなりました。何かが覆い隠したのでしょうか。そして乃済さんが語り始めます。
「鉄板か何かで塞がれたんでしょうね。つまり、恵愛にとって……この展開も計算内だったんですよ。お分かりでしょうが、先程の見るもおぞましい瞳は恵愛のものです。最後に私の滑稽な姿を見ようとしたんでしょうね。皆さんには異なって感じられたかもしれませんが……私には嘲笑の瞳に感じられました」
同じ物を見ていても、捉え方は人それぞれなのでしょう。それは乃済さんと恵愛さんの関連性が生み出したものです。だから私には、そうは感じ取れませんでした。ただ、そこには圧倒的な悪意と殺意のみを感じたんです。それが私の体を重くしたんでしょうね。
「もはや、私には……これ以上の打開策は見つけられませんでした。そこからの記憶はひどく曖昧です。なにせ自分が低体温症で死んだのか、溺死だったのかもわからないんですから」
そう言うと……乃済さんは仰向けのまま水底へと沈んでいきました。
「かくして水都は【水に沈んだ都】になりました。それは……かつては生きていたが、今はもう終わった存在。そう……他の人達の記憶から忘れ去られてしまった存在なんです」
水中で発したはずの言葉なのに、それは何故だか鮮明に聞こえました。私は水底の乃済さんに視線を向けると……そこには【水に沈んだ都】のように美しく……そして儚い女性が息絶えようとしているのです。彼女は最後に口を開きました。
「だから、私は……こちらの世界で記憶に残るべく、こうして皆様に物語るのです。おしまい、おしまい」と。