氷の時空(くに)からの宝物
「この辺だよねえ、確か……」
白く染まった息を吐きだして、教授は一人呟いた。
静謐な銀世界である。気を引き締めるような冷涼な空気が、音の類を削りつつ五感を研ぎ澄ましていくようであった。
鬱蒼とした針葉樹林の森の一角に、広大に開けた場所がある。湖だ。
真冬の今は一面、乳白色の氷に覆われている。針葉樹を柵にして守られた、天然のスケートリンク。空の天蓋も、粉雪の風に白く煙って果ての無い茫漠さに覆われている。
観光ガイドに記載のないエリアであり、辿りつくには縫うように細い未舗装の雪道しがないが、自身の持つ発火能力を活用し進路を確保してきた。森林火災に及ばぬように火力を調節し、眼前の固まった雪を一時的に溶かし足場を作っていたのである。通過した直後には、際立つ極寒から息を吹き返すように白い絨毯が敷き戻された。
やがて、視界の森は途切れ、時間が停止したかのような空間に身が誘われる。
現在、無事目的地である湖面の前に出たのを確認した彼は、自主製作したオリジナルのGPS端末を覗き込んだ。確信してはいるが、念の為の用心だった。
事の発端はサロン仲間の一人の頼みだ。
今は巨大な湖となっているこの場所だが、遥か太古に大妖精族の小王国があった。彼らの宝飾技術により編み出された財宝が埋蔵されているという伝説があるが、王国そのものは地盤沈下で滅亡し、妖精族達は森の精霊となって境界線の向こう側に住んでいるとされる。会って、湖底に眠る秘宝の在り処を聞き出したいが、自分の能力ではコンタクトが取れないので、君の術で呼び出してヒアリングして来てね、よろしくと今年で千歳を迎える計算になるという青年妖魔の友人に依頼されたのだった。
「やれやれ、神に仕える資格を取っても、染み付いた生業は中々消えるもんじゃないんだねえ」
主に大航海時代において、人間の海賊船団や王侯貴族から宝飾品強盗する冒険譚を意気揚々と聞かされた時は辟易したものだが、人ならざる者が領とする“秘境”までターゲットにしていたらしく守備範囲は幅広い。今回の場所は、彼の父が若かりし頃には確かに存在していたと言われる妖精の国だが、今や異界に移り住んだと言われる彼らへアクセスすることは妖魔の能力をもってしても無理なので、お手上げだという。
夏が来るまで決して溶けぬと言われる、一年の半分以上を閉ざされた凍える水面。
きっと、容易に寄りつかぬよう守護を意図した結果でもあるのだろう。
冷澄な大気を味わうように、教授は深呼吸する。
「じゃあ、始めますか」
気合い代わりに手を打ち鳴らしつつ言うや否や、迷わず氷面内へ踏み込む。瞬間、彼の履いていた雪上ブーツが、底から鋭い一枚刃を生やすスケート靴へと変化している。能力で形状を変えたのだ。湖の中央まで一気に突入する。
一定の方向へ暫く進んだら、ある位置で踵を返して方向転換し、45度程度の角度から斜め上に直進する。それを幾度か繰り返した。軽やかな滑りで行っているのは、彼の〝陣〟の形成である。刻んだ軌跡には、いつのまにか発光したような朱が浮かび、白濁の中に鮮烈な色が混じる。
描き出したのは巨大な五茫星だ。仕上げとして、中心に出来た五角形の空白部分に一輪、桔梗の花を添えて〝陣〟が完成した。全て一筆書きの要領で一息に行う。本来、星形それ自体が桔梗の花を意味するのだが、彼なりのお洒落として添えている。
〝陣〟形成の合間にも、教授は胸中で詠唱を念じ、降臨の術を仕掛けていった。
〝突然の訪問、御免ください、僕は極東の地からやってきた者です〟
〝あなた方は、今もここを訪れますか?〟
〝教えてください、どうしても知りたいことがあるのです〟
完成後は、念で呼び掛けながら氷の野原をジグザグに、縦横無尽に滑り回る。精霊の呼応が確認できるまでは、純粋にスケートで遊んでいようという気持ちもあった
奥まった地の厳冬の気候でも、欧州雪国の血も流れる長身はものともしない。そよぐ短い栗色の髪の下、三十前後の若々しさを持つ端整な顔つきは悠然としていた。マントのような白いコートが威風堂々とはためく。
どれくらい自由に滑走したろうか。微かに粉雪が舞い始めた矢先、ふと耳を澄ますと、静かな風の音に混じり、囁きに似たか細い声が聞こえて来た。
一方向だけではない。東からも、西からも、南からも、北からも、辺り一体を包むように飛び交っている。
次第に数を増して来た時、気づけば視界は、淡い人影の大群で埋め尽くされていた。金と銀の輝きを纏いつつ、雪の滴の如く煌めいて、湖上を舞い滑る。行き違ったかと思えば、擦れ違い、いつしか並走もしている。彼らの姿ははっきりせず、近づいた時、輪郭を帯びたかと思えば、距離を離した瞬間、身体の向こうの風景を透かしている。
教授は溢れんばかりの感動で、思わず両腕を翼のように掲げながら歓喜の声を上げた。精霊達が、応えてくれたのだ。
氷の湖を滑る彼らが寄り集う風景は、幻想世界の演舞と言えよう。
半透明だったのも暫くのこと、徐々に実体が露となっていった。皆一様に新雪めいて白皙であり髪が長く、一本編み込みを施していた。髪色はパールのような光沢を含ませた銀か、朝光の瑞瑞しさを孕んだ金。神の化身を思わせる無垢な肉体の色を持ちながら、身に纏うローブに似た衣装は赤と青を主体とした極彩色に飾り立てられていた。
空の白く光る真昼にも関わらず、いつの間にか頭上にはオーロラが棚引いている。境界線の合間に立ち入り、夢幻に等しき空間での現象にもまみえたのだ。
〝これは爽快、愉快! 感激です。人界の一術者の前へ御足労いただいたことを多大に感謝いたします〟
思わず、大袈裟な表現が洩れ出ずる。前方を向きながら後方に滑りつつ、祈りを捧げるように胸の上で両手をクロスする。
〝永久の冬の時空を超えし客人よ。今より、誘いの願に応えましょう〟
特に前触れの気配は感じられなかった。大勢の影が優雅に乱舞する中、どこからともなく大気に浸透するように響いた声がある。
振動する程大きくは無く、さりとて消え入る儚さはなく、清明な通りの良さで耳朶に至った。
刹那、北方向の森を背景に、擦れ違い合う幾人の影の中心部から印象深く躍り出た存在がある。一切の音を感じさせないしなやかさで、瞬く間にそれは教授の手前まで現れた。華美でありながらどこか清楚な装束の裾を払い、両手を組みながら鷹揚に頭を垂れる。
どうやら精霊の代表的存在のようだ。いずれの面立ちも、精巧な仮面と思えるまでに非の打ちどころなき端麗さに象られているが、絹と氷で創り上げられたかのように一際美しい。男とも女ともつかぬ美貌の上に被さる長髪は、他と異なり銀か金かのどちらかに決まらない、融合して溶けあったような織物を思わせる色合いに塗り染められていた。何より、特徴的なのが頂上に頂くトナカイの如き両の角だ。繊細優美な全体の印象を打ち消すように、勇壮に宙へ伸びている。王の風格を漂わせていた。
相手に倣い、教授もお辞儀をする。
〝其方は、求めるものがあって、我らをかつての地へ招いた。そうですね?〟
凛と、厳かに紡がれる。口は動いておらず、念で話し掛けている。声色も見た目と同じように中性的であった。
言葉と共に、面が上げられる。見開かれた瞳には、様々な色が乱反射するように生まれては消滅を繰り返していた。生物の眼球というより、水晶体を眺めるようであった。
低頭から直立に戻った身体は、平均値より高い教授をも凌ぎ、白樺の木を彷彿とさせる
「いやあ、ほんとすみませんねえ、御隠居中に。拙友の無茶な申し出です」
畏怖を感じつつ、いつもの軽薄じみた調子で苦笑混じりに返す教授。実体が明らかになった今は、彼の方は念を用いらず肉声を使う。幼き日より、当然のように霊体や異境の存在と接してきた彼には、わざわざ変に改まる方が作法として不自然に思えるのだ。
「で、肝心の要件なんですがねえ――」
〝重々承知しております。我ら妖精の氷細工。誇り高き職人達が、粋を込めて生み出した類稀なる至高の品。お言葉をいただくまでもありませぬ〟
「え?」
言い掛けた折、鮮やかに遮られ呆気に取られる。
「そこは事前に念でもお伝えしていませんよ、どうして――あ」
答えは相手の動作で表現された。教授の目が瞠られる。
何もなかった精霊の両手の中に、丸い光の輝きが黄金色に溢れていた。ボール程の大きさかと思うと、次第に黄金色は失われ、変わってそこには小さなチェストが載せられていた。古来からの宝箱のイメージに見合う、蓋の部分が半円柱形で入れ物の部分が四角形というものだ。
ただし、色みはよくあるくすんだ茶色ではなかった。煌めきの眩しい水色と透明の中間的な色で覆われている。淡い曇天の昼光に燦然としている。
教授は内心で首を傾げていた。友の妖魔の話だと、特別な秘宝ではなかったか。内密規模の品を、安々と差し出すものだろうか。
「良いんですか、本当に。流石に大判振る舞いに過ぎますよ」
〝滅相もない。貴方が御納得いただけないのなら、真に欲する方に問えば良い〟
意味深な言い方をする。気づけば有無を言わせず、趣味で買った軍用手袋に覆われた教授の掌に氷のチェストが置かれていた。一切の冷たさはなく、艶々とした上等の手触りだけがある。
〝ではご機嫌よう。現界からの客人よ。必要な願があれば、森の御霊と化した我ら、何時でも呼び掛けに集いましょう〟
何か言い募ろうとして言葉を探しあぐねている教授に構う余地は見せなかった。話し合いは終わったと言わんばかりに一方的に締め括るや、右手を胸元に当てて低頭しながら後方に身を下げている。足の動きも見せずにこちらを見ながら遠ざかる精霊は、次第に姿が曖昧となっていく。
林の深い緑に溶け込んだと見えた時には、不規則に周囲を漂っていた同胞達の影も景色の中へ霧散していた。
銀白のフィールドには、男一人が残された。
ざわめきは大気に吸収され、再び白き静謐の湖上に戻る。
雪片を孕む微風の小音だけが耳元を凪いでいく。
劇的な邂逅に比して、用事の方は随分あっさりと片付いてしまった。交渉のスリルも無い。
夢から醒めたばかりのような虚脱感が全身を覆った。兼業開始から慣れた感覚ではあったが、山場が用意されている事態が多かっただけに手応えは薄い。
彼らの授与に、素直な感謝を抱いて良いか迷うところだ。
改めて、ぶ厚い手袋を着た掌の中で輝き続けるチェストを見遣る。
フレンドリーに振舞いはしたが、超次元の産物だ。
やはり、あまりに畏れ多いと、教授はこれを帰還までは亜空間に隠し持ち帰ることにした。空港で検閲されても仕様がない。
日本史上において、二代目首都を飾った歴史を持つ市の某山辺。
教授の屋敷の数あるリビングの内、エタノール暖炉の炎が揺れる洋間にて、彼はパイプ型の電子タバコをふかしながら、対面のパーソナルソファで脚を組む僧衣の青年に切り出した。
「異常な妖力は感じられないし、罠の仕掛けもないみたいだ。早々に打ち切られたから中身を確認する暇もなかったけど、いずれにせよ最初に開封するのは君だよ。大役を任せた責は君にあるんだからね」
表情は穏和だが、文句を込めて言い放つ。
主題はテーブルに置かれたガラスのようなチェストだ。温かい部屋の中でも全く影響を受けた様子がなく、赤い炎の色を溜めてランプのような趣を醸し出していた。
「骨を折るような結果にならずに済んだんだから、問題ないじゃない。第一、君のことだからたっぷり町で観光してるんだろ? 土産の紙袋が亜空間からしこたま吐き出されるのを居候の助手が見たと聞いたぞ」
パーソナルソファの青年は揚々と抜かしながら、特に予備動作なく片手でチェストを掴み取り、しげしげと眺め入る。
彼が今回の件の依頼人である妖魔の男だ。彼の種族はあと百年経った段階で、ようやく人間で言うところの中年期を迎えるらしい。依然として若者の肌艶を保つ端正な顔を、罪悪感のない無邪気な笑みで染めている。容姿は無害なもので、特別派手な特徴はなく、髪色はラテン系の落ち着いた青みある黒で普通の肌色に覆われていた。際立って人間と異なる点があるとすれば、宝石入りのピアスを嵌めた耳の上部がやや尖り気味だと言うこと、そして口を開く都度、異様に長い八重歯が覗くことだ。
「後でロングジンのボトルを一本譲っておくれよ。トカゲの蒸し焼きを肴に飲みたいんだ」
「お代は払ってくれたまえよ。僕の資金でも高かったんだぜ?」
教授は皮肉めいた軽口を飛ばすも、次の瞬間には切り替えの早い性格を活かしてチェストの件を持ち出す。瞳には好奇心の輝きが灯った。
「ねえ、で、秘宝とは何だろう? 宝飾品好きの君が狙うというのだから、心当たりがあるのだろうね?」
「早まらないでおくれよ。伝承で耳に挟んでいた程度なのだから、僕とて確信があるわけじゃなかったしねえ。持つべき人間の友に一人は術者がいるべきだな」
19世紀頃から愛用している葉巻を吸いながら青年妖魔は言う。
「むう。僕は便利屋じゃないぞう。今度はお土産もあげないぞ!」
教授は幼児のように分かり易く頬を膨らませ、反抗の意志を示した。
「怒るなよ、魔界の王の角質から作ったビロードのマントを譲るさ。魔力を補強する成分が入っている。その時代を知ってたはずの親父も仲が悪かったからなあ。あまり聞けてなかったんだ……ま、個人的な話はさておき、本番といくよ」
角質のマントなんていらないよ、魚人の鱗がいいよ、と横合いから呟く声を聞き流しながら、青年は蓋に手を掛けた。
「氷細工だね。永久に溶けない仕掛けがされているんだ。彼らの粋を極めた特殊技術であることに間違いは無い」
いつの間にか傍に教授が近寄って、肩越しに覗き込んでいる。
「あれ? 取っ手がついてるね」
「ほんとだ。何故この瞬間まで気づかなかったんだろう」
確かに、右の側面に手回し用の取っ手が付けられていた。
取っ手は右方向に動くようだった。従って回してみる。
次の瞬間、チェストから音楽の音色が流れ始めた。同時に、蓋が一人でに持ち上がっていく。
旋律は讃美歌にも似ていたが、民謡的な素朴な打ち鳴らしの音が器用に合わさっていた。
「手回し式のオルゴールと同じ仕組みらしい。あ、見て」
教授が指を差した。
氷のチェストから美しい音楽が奏でられるというのも幻想的だったが、続けて更に奇跡が起こる。
音色に合わせ、チェストがプリズムの如く7つの光を発しながら輝いていた。
その色彩は、間接照明と暖炉の火を灯りとした薄暗い部屋を、大自然の中で仰ぐ明澄な星空のように淡くも強く照らし出す。
蓋が後ろ側にまで傾き降りた時には、多彩な光の躍動は静まっている。
中から現れたのは、チェストと同じ、氷細工で作られた薔薇の花束だった。
「おや、宝石じゃなかったねえ。でも、これは貴重だぞ、きっと」
術者の教授でも専門的な鑑定は行えない。分析を催促する意図も含めて、彼は友に片目を瞑りながら視線を馳せる。
しかし、暫し陽気な青年から明瞭な反応は返って来なかった。柱時計の秒針が一周した頃、漸く唇から言葉が洩れる。
「そうさ。貴重さ。この活動期においては一段と。特注で作ってほしいと、お願いした品なんだからね」
「え……えええええっ!」
ほぼ常に泰然自若としている教授の声音が間抜けに裏返った。一語呟いて溜めた後、叫声を上げる。
「どうか驚かないでほしい。無二の友でも、誤魔化さなければいけない理由があった。こんな界隈に秀でた君なら、すぐ冷静な推理を導き出すと思ったがね」
普段はおちゃらけた青年の口調は、聖書を読み上げる時のように穏やかだった。今身に纏う服装には相応しい態度だ。
「……なるほど。人間社会に珍品として知れ渡る危険性を考慮したのか」
相手の期待に応えるように、即座に合点した解答を紡ぐ。
青年は無言で首肯した。
「意外だな。他のコレクションに関してはそんな態度、出したことないのに」
「絶対の自信があったからさ。いざとなれば、妖魔の格闘術で黙らせて済むだろう」
物騒に両手の指を鳴らしながら呟く。
「だが氷の花束は別だ。君自身は沈黙を約束しても、もし君の伝手の者から漏れることがあれば? それも、当界隈に理解なき者が情報を受け取ってしまえば? 僕の妖力で後から消火活動をするのでは手遅れなんだ。彼らの魔法の技能は、本来、他者から秘されてこそ存分に発揮される。心なき者に知られた途端に魔法が解けて、安全のために霊界での安息を選んだ彼らが根本から消えてしまう……。厳重な警戒が必要だった、信頼している知己を試したことを、友よ、赦しておくれ」
快活が取り得の一つである彼の瞳に、真摯な申し訳ない色が浮かんだ。
教授は首を振って、優しい笑みを広げる。
「事情があるなら納得するしかないさ。境界を出来る限り閉ざすことで、彼らは大地の奥の神秘を守っている」
「でも、それだけじゃないんだ、先生」
ふいに青年は新たに切り出した。
「どちらかと言えば、実は僕の個人的な事情に関係するんだ……。これは、母が生きていれば彼女に届けるはずの贈り物だったのさ」
「君の……御母堂様?」
悲痛な打ち明けにも、教授は妙な動揺を見せず、淡々としかし温厚に耳を傾ける。
青年の表情も、特別大きく変わることはない。だが室内の炎に照り返しを受けたそれは、迂遠に胸中を訴えているようでもあった。
「父は迫害を免れるべく、王政下で地位を築くことに躍起になっていたが、母が出自の特質上、王都内での環境が合わず、日々身体を蝕まれていったんだ。妖精界に移住すれば、療養になると申し出たが父は聞く耳を持たなくてね……。今はどう思っているかわからないさ。揉めたのも、随分昔のことだからな」
青年の冒険旅行のそもそもの動機は、思想の噛み合わない父との対立に端を発することは過去に教授も聞いている。恥ずべき私事だからと、彼は天真爛漫にも思える気質で濁している節があることを知り合って当初から感づいていた。
「ならばせめてと伝手を頼って探し回り、やがて北欧を巡る旅の中で彼らの秘境である王国に行きついたのさ。依頼したのが、魔法で治癒の成分が注がれた氷細工さ。花束にしたのは、見舞いの意味も兼ねてね。母上に、冒険の成果を披露する機会にもなるだろ?」
青年はそっとした手つきで、中から一輪を掴み取る。本当に氷かと疑いたくなるほど、ガラスに近い頑強さで輪郭も揺らぐことなく手の中に納まっていた。
「だが、ついに母上の元に持ち帰ることは叶わなかった。北の奥地にも征服の手が伸び、完成予定の日に向かった時には、彼らは境界を閉ざしていた。もう、会える術はないと諦めていた最中、現代になって、君と知り合ったんだ」
エタノールの火灯りが仄かに顔を染めている。静かに傾聴する教授の顔も染めている。
「母は神の御許へ旅立ちになったが、いつかオルゴールの花束は受け取っておきたいと思っていた……渡す相手なんてもういないのに……」
口端が苦笑に歪む。
「照れ隠しだったのかい? コレクションの一つにしたい秘宝だなんて嘘で取り繕ったのは。素直に見える性格をして実質素直じゃないのは、なんとも君らしいや」
悠然とパイプからの供給を再開して、教授は慨嘆する。哀れみも同情も表さない。友としての純粋な思い遣りだけが滲み出ていた。
青年の顔にも憂いはない。次の瞬間には、持ち前の揚々とした笑顔を満面に張り付けている。
温かい眼差しで見下ろしている友を仰ぎ見つつ、口を開いた。
「春になったら、南欧の実家跡に墓参りに行くよ。君も付き添ってくれるかい?」
「もちろんさ。帰りは現地のバルで僕が奢るよ」
片目を瞑りながら、元気の良い声で言い放つ。
青年は心より嬉しそうに認めると、一つ付け加えた。
「精霊の彼らには、確かに品を受け取ったと、また伝えに行ってくれないか。出来ればお礼も添えてね。彼らは人や他の種族と交流が盛んだった時代から、特に酒を愛していた」
「任せておきたまえ。ところで今夜、早速ロングジンで共に一献味わうのはどうだい。定番のサーモンの缶詰もあるぜ」
テーブルの上で開けられたままのチェストの中、氷の花々は光の滴を着飾って尚も瞬き煌めいていた。
(完)
冬の童話祭、気晴らしにと参加させていただきました。童話と言えるかどうかは微妙ですが。個人的な思いつきの〝雰囲気萌え〟に任せ、至って単純な流れで書きました。
当初は奇想天外で気楽なものにしようと思っていましたが、最近、宮沢賢治関連のアニメを見ていたら考えが変わってしまいました(笑)。
着想の大本は、アリソン・アトリーさんの『氷の花束』という短編のタイトルから、氷の湖で妖精たちが現れて術者の人と滑るイメージは、enyaの「TRAINS AND WINTER RAINS」を聞いていたら何となくの妄想で浮かびました。Train出てこねーのに(笑)。帰りはairplaneです。
主要人物のような二人が何やら山盛りの背景を匂わせるようですが、現時点では特に広がることはありません。そこは規定に沿ったつもりです。私的に実験的な意図で作ったものでもあります。
それでは来年、また。