プロローグ4 失意からの始まり
大ハーンの、短毛に覆われた顔から、老いてなお鋭い視線をルジェはまともに浴びた。
畏敬と恐怖がルジェの脳内を支配する。
何も、何も考えられない。膝が震える。
思わず、ルジェは平伏した。
仕込み杖がカランと音を立て、地面に落ちる。
……一秒が、一時間に感じられた。
ルジェが面を上げ正気に戻った時、すでに大ハーンの馬車は遥か遠くにあり、パレードの最後尾、3両目の馬車が眼前を通り過ぎるところだった。
……動けなかった、一歩たりとも動けなかった。地面に落ちた仕込み杖に手を掛ける事さえできなかった。
相手は、自分を暗殺者としてすら認識しなかっただろう。
3両目の馬車には、2人の長毛種の小鬼と一人の緑髪の人間の少女が乗っていた。
長毛種のうち一人はバイハラの総督、もう一人はその側近の魔術師であることをルジェは聞き及んでいた。
もう一人の少女は……分からない。純白のドレスで着飾ってはあるが、まるで、奴らの戦利品が晒し者にあっているかのようだ。その後の運命は、言うまでもあるまい。
不意に、涙がルジェの瞳にあふれてきた。彼は、彼女のような人間を救うことが出来なかったのだ。
その場をゆっくりと立ち去る姿を見ている者がいれば、異常さを感じ取ったかもしれない。
しかし、彼はパレードに集中する誰からも気を回されぬ、その程度の存在であった。
少女の視線の先に、ルジェが立ち去る姿が映るが、……彼女とルジェの運命が交差するには、まだいま少しの時間が必要だった。
そして、数刻の後……
「カーラ、カーラッ!!」
港の路地、待ち合せ場所に設定したそこにカーラの姿はなかった。
「……ちく、しょう……畜生!!」
ルジェはただ泣いた。……泣き続け、
そして、自分が手持ちの40ディルハムと二等市民証を除くすべてを失ったことに気づいたのだ。
彼は自身が乗ってきた駅馬車の馬小屋へ忍び込み……そのまま一晩を明かした。
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貴重な40ディルハムのうち10ディルハムを使って、親元へ手紙を送る意味を、ルジェは二通りに考える。
まず一つは、もちろん自分を連れ戻そうという試みを阻止させる事。
もう一つは……カーラを巻き込んだことに負い目を感じていることだった。
「どうせ農家は冬の間、蓄えで細々と暮らすことになるんだ、食い扶持を減らせるって喜んでいるさ」
そもそも、両親はルジェを本当の息子とは思っていない。保険にこの手紙を出すが、いずれ積極的に連れ帰ろうとはしないだろう。
ルジェは詳しく聞いていないが、きっと自分はカーラと同じで捨て子を拾ったんだと信じていた。
だけど、自分の両親とは違って村長はカーラを娘として愛している。少なくとも彼女を連れ帰らない限り、村には戻れない。
その間の食い扶持を稼ぐ手段を、青髪の青年は冒険者になる事しか知らなかった。一応、村の自警団に所属していた彼は最低限の剣の訓練は受けている。
「赤毛のジャック……俺は、あんたや大ハーンをいつか、超えてみせる……!」
彼と同じ英雄として名を遺す試みは、一旦は失敗した。しかし、道は一つではない。
ルジェは自らの野心を成すため、そしてカーラを探すための決意表明として、この手紙を書いたのだ。
「……そうなるまでは、マィオーニに帰るものか!」
ところで、宛名を書き終わったところで、彼は一つ重大な事に気づいた。
「あれ、父さんと母さんって、文字読めたっけ?」
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― それは、遥か彼方の物語。幾重の時と空を抜けた先にある、剣と魔法の世界の話。世界の秩序を守るべく、精霊とマナの籠と恩恵を受けた巫女たちと、すべての秩序を覆し、原初の混沌へともどそうとする魔神の伝説。かの地に行き、暮らし、戦い、そして死んだあまたの命が奏でる協奏曲。
バイハラ市街地のある一角。旅の吟遊詩人の奏でるハープの美しい音色が響いていた。
謡うのは、背丈の半分を抱えるハープに占められた小柄な少女。水色の髪と同じ色の瞳がミステリアスな印象を与える。
― エスティール、それは混沌を支配する魔神から人と精霊が手を取り合い勝ち取った理想郷。白銀の雪と山岳に囲まれた『イーズ』、草わらと木々の織り成す『プレイリア』、日差し照る灼熱の大地『カジャーン』、重なり合った三つの小大陸。人の子と精霊の秩序は、1万年の長きにわたり維持されてきた。
水色の前髪で右目を隠した小柄な少女の語り口は、まるで羊水の中に浮かんでいるような安心感を周囲の人々に与える。
― 地の巫女リアは100年に及ぶ生を、秩序へささげた。風の巫女アイリスは英雄王オットーと共に戦うも、小鬼達の餌食となった。火の巫女キーリアは赤毛のジャックを残し、魔神ン=ドゥとの闘いに散った。天の巫女ライアは邪悪な魔神フェ=バンドを討つも呪いを受け倒れた。そして、水の巫女ミルゼは魔神王ダ=ジムの手に落ちたところを、赤毛のジャックに救われるも、巫女としての力は失われた。
聴衆たちはドゥネ=ケイス戦役中に彼女らを襲った悲劇を謡う彼女と意識をシンクロさせ、まるでその光景が浮かぶかのようだった。巫女たちの運命は大陸中によく知られた話であるが、それというのも、特に風の巫女の転生体と言われる女王アイーダに支配されたホークガルドと、火の巫女の転生体エリアを女王に頂くアイランにとって重要な逸話だからだ。彼女らの正当性を担保する材料として喧伝されていたのである。
― かように、戦争によって巫女たちは秩序とマナのバランスを維持する力を失ったのだ。これから語るは、ある冒険者の話。そんなエスティールの未来を紡ぐ5本の糸の紡ぎ手の伝説。
少女……人々からは『rwate』と呼ばれている、古き秩序の担い手、その成れの果ては語り始めた。
プロローグはこれにて終了です。
ダメそうな主人公ですが、自分の手で立派にできるかどうか……
*ルワーテちゃんはただの人間ではなく『そういう存在』です。