Ⅱ.
それから少し経った日の事。まだ颯真は結愛に返事をしていなかった。イエスかノーか、二択しかないのでマカの言う様に簡単な事の様に思える。しかし、相手は人間……しかも年頃の女の子だ。選択と言葉を誤れば、深く傷付けてしまう。颯真は慎重にいくべきだと思った。
マカはそんな颯真を珍しいものを見る様な目で眺めていた。颯真=無関心と言う図が成り立つぐらい、彼は他人は勿論の事自分自身にも興味がない。当然自分の都合でさっくり返事をするのかと思っていた。
結愛と廊下で擦れ違った時、颯真は大変気まずそうに会釈し逃げる様に教室へ入った。途端、クラス中の視線が一斉に颯真へ向けられ、ざわめき出した。
「何だよ……?」
颯真の戸惑いの一声が空気を裂き、ぴたりとざわめきが静まった。
しかし、すぐにざわめきが戻ってきて、視線も彼方此方から飛んできた。
得体の知れない空間に足を踏み込む事を憚り、なかなか次の一歩を踏み出せずにいる颯真のもとへ昭國がやって来た。
「教科書戻って来たぜ。だけど……」
「そっか。そりゃひとまず安心だな」
どこか落ち着かない表情で紡がれる言葉を最後まで言わせず、颯真は昭國の脇を擦り抜けて自分の席へ向かった。
もうどの様な状況なのか察しがつく。……つくのだが、いざ目の前にした光景は颯真の想像を遙かに超越した凄惨なものだった。
「うわ……」
すぐに颯真の眉間に皺が深く刻まれた。
机上に広がるは血の様な赤いインクの湖。そこに浮かぶは変わり果てた教科書“だったもの”。ハサミか何かで不規則に切り刻まれ、端が焦げていた。止めに上から包丁が突き立てられ、机上に磔状態となっていた。
マカと初めて出会った朱に染まった駅のホームを地獄だと例えたが、これはそれとは似て非なるものだ。
あの駅のホームが死霊の創り出した地獄なら、目の前の光景は生霊の創り出した地獄だ。
生きている者の生きている者への怨恨や嫉妬がひしひしと伝わり、包丁が突き立てられたのが心臓であるかの様に錯覚する程だった。
「誰がこんな事を」
颯真が呟くと、後ろの席の男子が困った顔で「俺が来た時にはそうなってたよ」と返した。他の者も知らないと言う。
「まったく。陰湿だな……」
颯真はぶつぶつ独りごちつつ、包丁を抜いて教科書の残骸を掻き集めてゴミ箱に捨てた。雑巾を持ち出し、もう一度席に戻ると昭國が深刻な表情で赤の湖を見つめていた。
「お前、そこに突っ立てるだけかよ。暇なら手伝えって」
颯真が赤の湖の上に雑巾を落とすと、雑巾がインクを吸って赤に染まり始めた。
「これって、例のデスレターと同一犯かな」
昭國の呟きに、ピタッと颯真の手が止まった。
颯真はゆっくりと、顔を昭國へ向けた。
「その可能性は高いな。でも、俺そんなに恨まれる様な事した覚えないんだけど」
「うーん。友人の俺もそう思う。お前、良くも悪くも目立つ行動しねーもんな。例のセクハラ野郎ぶっ倒した事件は例外だけど」
言い換えれば、無関心で無関係……それをよく思わない者も存在する事を二人は知らなかった。
マカの目がギラリと光る。責める様な視線を受け取った颯真はギクリとしたが、友人が不思議そうな顔をしたので何でもないと言う風に首を緩く横へ振り、チャイムが鳴る前に綺麗に片付けた。
騒ぎにしたくないと言う本人の申し出でクラスメイトは皆平静を装い、担任だけが仲間外れのままホームルームが始まった。
「ク、クラスの子からこっそり聞いちゃったんだけど、朝大変だったみたいだね」
隣で弁当を広げる結愛が神妙な面持ちで、そう話を切り出した。
颯真は購買で買った焼きそばパンの封を開けながら、ふわふわ流れていく白い雲をぼんやりと目で追って口を開いた。
「ああ。さすがにヤバいなって。犯人の心境がな」
豪快に焼きそばパンにかぶりついた。甘辛濃厚ソースとふんわりとしたパン生地の相性は抜群だ。
結愛は「確かにね……」と苦笑を浮かべ、手作りの甘い卵焼きを頬張った。
昼休みに二人は偶々この屋上でばったり会い、並んで昼食を食べる事となったのだ。
自分はともかく、結愛が一人で食事なんて颯真には意外だった。理由を訊けば、結愛の友達である七は欠席で他に食事する友達がおらず、かと言って友達同士で盛り上がる教室内で独りきりは耐えきれなかったので誰も居ないと思った屋上へ来たのだとか。それで今恋している相手が居ただなんて、端から見たらロマンチックかもしれないが、互いに唯々気まずいだけだった。
それから会話が弾まず、黙々とパンを胃に収める颯真からは告白の答えは聞けそうもない。結愛はしゅんっと頭を下げ、箸を動かした。
モコモコしていた雲の塊が散って、新たな雲の集団が流れて来た頃。颯真は空になった袋をクシャクシャに丸めて立ち上がった。
「あれ? もう食べたの? 早いね」
結愛はまだ食べている途中だった。
「飲み物買ってくる。さっき買えばよかったんだけど忘れてて」
颯真が歩き出し、結愛は表情を曇らせた。と、急に颯真が振り向いて、結愛は慌てて表情を元に戻した。
「てか、お前も何かいるか? 買ってくるけど」
「えっ。えっと……あ、えっと、じゃあ、イチゴミルクを」
「ん、分かった」
前を向いた颯真は、ふと扉が僅かに開いている事に気が付いた。先程までは開いていなかった様な気がするし、一瞬だけ視線を感じた気がした。
マカも同様の事を思ったらしく、颯真と視線が合うと意味深に一つ頷いた。それ以上マカは語らず、颯真は一層用心深くなった。
そっと扉を開いて辺りを確認してみたが、目の前に薄暗い階段があるばかりで他には何もない。
背後でパタンと扉が閉まり、颯真の肩が上下する。心臓もバクバクと忙しなくなり、落ち着かせようと目を閉じて長く息を吐き、また目を開くと階段を下りていった。マカも、大きな棺桶を揺らしながら、主の後へ続いた。
その後は何事もなく一日が過ぎ、母と二人晩ご飯を無言で食べる。颯真には母に話さなければならない事があるのだが、それすら億劫で後回しにしていた。
どうせ今話さなくったっていつかは分かる事。教科書を紛失した事など、学校側から知らされる事となるのだ。
静かな親子の間を縫って、テレビの音が心無く響いていく。
「また煽り運転。前にもこんなニュースやってたわよね」
母が呆れた様にぼやき、味噌汁を啜った。
テレビ画面には現場となった高速道路が映し出され、被害者の名前が表示されていた。どうやら、加害者に追い掛けられた挙げ句車から降ろされ、後ろから走ってきた大型トラックに撥ねられて即死してしまったらしい。悲惨な事故だ。殺人と言っても過言ではないが、加害者に与えられた刑罰はあまりにも軽いものだった。
関係者ではない二人には他人事で、特に颯真は無関心。今関心があるのは目の前の焼き魚だけだった。こんがり美味しく焼けた魚の身を綺麗に取り出す事に夢中だった。
カチャリと玄関が開く音がして、「ただいま」と声が届いた。
「お父さんが帰って来たわね」と母は言い、席を立って父の分の料理を台所へ取りに向かった。
颯真は白米をかき込んで父の姿が視界に入るか入らないかぐらいのタイミングで席を立って、足早に自室へ戻った。その際、父が挨拶して来たが安定の無視を決め込んだ。
颯真は明かりも付けず、ベッドに仰向けで倒れ込んだ。
「お風呂は入らないの?」
マカがベッドの縁に腰掛けながら、問い掛けた。丁度、机上の写真立ての颯真とかつての親友と視線が合った。
颯真は気怠そうに顔を横へ向け、視界一杯に入ってきた真っ黒な棺桶に眉根を寄せた。
「今から入るよ。あのさ、それいつまで背負ってんだよ」
最初は恐怖を増幅させる物としか捉えられなかったが、マカと言う存在に慣れてしまった今疑問の対象となっていた。
マカは颯真の視線が棺桶に向けられている事に気付くと、立ち上がって颯真に向き直った。
「来たるべき時が来るまで」
その時、何処からか風が吹いてマカの見事な漆黒の長髪をバサバサと揺らした。瞳はいつもよりも赤く燃え上がっている様に見えた。まるでその様は地獄の使者そのものだった。
来たるべき時とはいつの事か、そもそもマカとか何なのか、何の為に此処に居るのか、分からない事だらけなのに、言葉では形容しがたい恐怖に縛られて颯真は何一つ訊き出す事は出来なかった。