Ⅵ.
橙の光が差し込む渡り廊下を颯真は歩いていた。帰りのホームルームが終わってから、つい先程まで美術室で未提出の油絵を仕上げていた。他にもクラスメイトはまばらに居たのだが、皆サッサと仕上げて帰ってしまい、颯真は一人取り残されてしまった。尤も、友人はそれなりにいるものの、元々一人で行動するのが好きなので普段と何ら変わりはないのだが。
下駄箱で外用の靴に履き替え、校門までの道程を歩いていると首根っこを掴まれて歩行を強制停止させられた。
「マカ。お前な……」
「あの先生、何処に行くのかしら?」
「先生って……」
マカが視線を向けている先へ颯真も視線を向けてみると、鬱蒼とした木々の向こうへ背広姿の男性教師が消えていくのが見えた。
後ろ姿だけでも生真面目さが際立つその教師こそ、咲良へ行き過ぎた個別指導をしていた世界史教師である。
マカの赤い双眸はずっと教師の背中を追っていた。
「ねえ、向こうには何があるの? 見回りにしてもおかしいと思うのだけれど」
「向こう……うーん。俺、学校に興味ねーから詳しくねーな。あ。いや……確か、あっちって古い倉庫があったな。幽霊が出るだの校内で一時期噂になったっけな」
「なるほどね。好都合って訳か……」
「何がだよ」
「キミは察しが悪いわね。さ、行くわよ」
マカは颯真の首根っこを掴んだままずんずん木々の隙間を進んでいき、颯真は守護霊代理の絶対なる力に抗えずに道連れとなった。
東の空から静かなる闇が迫り、必死に藻掻く日の光もごく僅か。木々が自由に彼方此方へ枝葉を伸ばすこの場所では、赤く燃るそれも気持ち程度にしか届かない。
蒼然の中にひっそりと現れたのは噂と違わぬ古びた倉庫。
教師の足は迷う事なくそこへ向かっている。
颯真もマカの道連れで不本意ながらも同じ方向へ息を潜ませつつ進むのだが、肩に掛けていた鞄が木の枝に引っ掛かりそれを力づくで解いた為に音が響いてしまった。
教師の足がピタリと止まり、颯真は心臓がドキリと止まりそうになった。
「誰か居るのか?」
教師の淡々とした声に応え、颯真は渋々木陰から出て来て苦笑いを浮かべた。
「俺でーす。先生の姿見掛けたもんで、つい」
「……俺に何か用でもあるのか?」
教師の冷たい視線が突き刺さる。
「用はないです……」
「なら早く帰りなさい」
「えーっと……はい」
背後からも視線が突き刺さりあの日の授業の様な状況に陥ったが、今回ばかりはマカも颯真に強制する事はなかった。どちらかと言うと、マカは臨戦態勢に入っていた。この冷血教師から脆弱な生徒を護れる様に。
颯真はクルッと回れ右し、従順なフリをしてその場から去った。その間、ずっと冷ややかな視線が背中に突き刺さっていた。
「やっぱりおかしいわね。明日朝早く行って、あの倉庫を調べてみましょう」
「えー……マジかよ、めんどくさー」
颯真は部屋の明かりを消すと、ゴロンとベッドに寝転がった。
「っていうかさー。俺、無関係でいさせてくれって頼んだじゃんよ? 守護霊……しかも代理のくせして、何でわざわざ俺をそんな危険な目に遭わせようとするワケ?」
颯真に背を向けて立って居る少女は少し間を置いたあと、ポツリと呟いた。
「キミは自分で自分の首を絞めている。……不利になるだけよ」
「何? 聞こえなかったけど」
マカに顔を向けると、マカは大人びた笑みを見せ颯真に布団を掛けた。
「とにかく、今日はもうおやすみ」
「あーうん。お、おやすみ……」
何だか子供扱いされているみたいで歯痒かったが、次第に睡魔が襲ってきて瞼が下りていった。
***
右も左も前も後ろも上も下も……全てが分からない、自分がそこに存在しているのかすらも分からない真っ暗闇の中。確かに自分の意識はあった。
唯、自由に動く事は出来ない。たとえ動く事が出来たとしても、動いている事を証明してくれるものなどないので、結局のところどちらでも良かった。
とにかく、確かな意識はもう一つの存在を捉えた。目には見えないけれど、感じる。
やがて闇は薄れ、何とか物の輪郭が分かる様になると、眼前に人間の手が、血の気のない手が迫っていた。
思わず呼吸が止まりそうになった。
「どうして……どうして見捨てたの? また僕を見捨てるのか?」
濁った耳障りな声が脳に直接響き、瞬間、迫っていた手が首に纏わりついて締め上げた。グッグッと、力が強くなっていき、息の通り道も塞がれていく。
何とかそれを振り解こうと手を伸ばすが、両の目に映った屍人の遺恨の表情にゾッとしそのまま凍り付いた。
そのうちに、どんどん呼吸が出来なくなって意識も遠のいていく。
「どうして……どうして……どうして」
意識が完全に途切れるまで、いつまでも脳内で木霊していた。
***
「――――っ!」
颯真の目がバッと見開かれた。額には汗の粒がいくつも浮かび、呼吸は溺れたかの様に荒かった。
傍でずっと守護していたマカは颯真の心地よくない目覚めに、少々目を瞬かせた。
「おはよう。寝ている間も度々魘されていたけど、悪夢でも見たのかしら?」
「……悪夢? あれ? どんな夢見たんだっけな……」
颯真は上体を起こし、後頭部を無造作に撫でて記憶の糸を手繰り寄せ……噎せ返った。
再び、首筋にひんやりとしたものが纏わり付く感覚が襲って来た様な気がした。
「そ、そうだ! 倉庫確かめに行こう!」
何ともない首を手で気遣いながら、颯真はベッドから下りてせっせと支度をし始めた。
マカは颯真を目で追い、首を傾けた。
既に開いていた校門を潜り、背中に朝練する運動部らの元気な掛け声を受けながら昨日と同じ道を進んでいく。
鬱蒼と生い茂る木々の合間の少し開けた場所に、変わらず倉庫は存在した。閂は外されていない様子から、まだ誰も立ち入っていない様だ。
念の為辺りに十分注意を払いつつ、倉庫に近付いてみる颯真。
その時、背後でカサカサと音が鳴った。
肩を跳ねさせ、ぎこちない動きで振り返ってみるとマカの綺麗な顔があった。
「大丈夫。鳥よ」
「そ……そうか」
倉庫へ向き直り、閂に手を掛ける。
ドクンドクンと心臓が高鳴り、手が指先から冷えていって小刻みに震え出す。
正直、颯真にとって自分がそうまでして叶えたい事ではないのだが、悪夢が心に刻みつけた恐怖によって殆ど操り人形と化していた。勿論、正義感など微塵もない。
カタンと、閂が外れた。
もう一度辺りを念入りに見回し、目が合ったマカがこくりと頷くと意を決して扉を開いた。
中は真っ暗だった。
颯真はスマートフォンで辺りを照らし、慎重に踏み込んだ。
ずっと使われていないと聞いていたが、歩いても然程埃が立たない。つい最近まで使われていた――――否、現在進行形で使われているのだ。
「う……うぅっ……」
朝の空気で冷え切った倉庫内で反響する啜り泣きは間違いなく人のものだった。一瞬幽霊かと思った颯真だが、マカが否定した事によってあっさりと得体の知れないモノに対する恐怖は鳴りを潜めた。今ある恐怖は、想定外の出来事に対するモノだ。
少しずつ声のする方へ歩みを進め、光の中に浮かび上がる現実に息を呑んだ。つい、スマートフォンを手放しそうになった。
「おい……マジかよ」
そこには行方不明の女子生徒が居た。しかも、変わり果てた姿で。
両膝を抱えて顔を埋める咲良は下着しか身に付けておらず、細い首には冷たい金属性の首輪が付けられて、鎖で柱に繋がれていた。
マカは颯真の隣に並び、憐憫の表情を浮かべた。
「何て酷い事を……。色欲、立派な罪ね」
被害者の咲良も、目撃者の颯真も、どちらも年頃でこの現実はあまりに刺激が強すぎて思考が追いついていない状態だった。
咲良に至っては失踪した日から今日までの間、不安定な状態だったのだ。ここは颯真が頑張るしかないと、マカは彼の背中を押した。
「ほら、何してるの。上着掛けてあげなさい。そうしたら鎖を外しましょう」
「えっと……ああ」
颯真はブレザーを脱ぎ、そっと咲良の肩に掛けると手際よく鎖を外し始めた。
「キミ、一高校生がそんな簡単に鎖を外せるものなの?」
マカがじとっと颯真を見つめると、颯真はマカを睨み返した。
「知恵の輪とか得意なんだよ。人助けしてるのに疑いやがって」
鎖と首輪が外され自由の身となった咲良はブレザーでキュッと身体を包み、涙目で颯真を見上げた。
「あ、あの……あたしを助けに来てくれた、の……?」
「助けに来たっつーか……たまたま」
咲良の淫らな格好が視界に入らぬ様、懸命に視線を逸らした。が、少し気になってチラチラと見てしまう。
「あ、ありがとう……」
「あ、ああ……。まあ、何だ。取り敢えずここから……」
「颯真! マズイわ!!」
マカが血相を変えて叫ぶと、パッと倉庫内に明かりが灯った。
一応明かりがあったのか……と颯真が思ったのも束の間、隣の咲良が颯真の腕に掴まって震え出し、怒声が響き渡った。
「おい! お前、何をしている!?」
「せ……んせい」
颯真は何とかそれだけ喉の奥から搾り出すと、それきり声を発する事も身動き一つ取る事も出来なくなった。
世界史教師は鬼の形相で、カツカツと距離を縮めて懐を漁りだした。
室内灯が反射してギラリと輝いたのはナイフ。
教師はそれを颯真に振り翳した。
「証拠隠滅だ。死んでもらおう」
「ひぇっ」
颯真が片手を盾にすると、ヒュっと守護霊代理が間に入って例の不思議な力で教師を吹き飛ばした。
カランと床に落ちたナイフが虚しい音を立て、傍らに教師が泡を吹いて仰向けで失神した。
「今の……何……?」
マカの存在を認識出来ない咲良には、何が起こったのか理解が追いつかなかった。
「さあ、今のうちに警察に連絡!」
マカが呆然と立ち竦む颯真にビシッと人差し指を向け、颯真は力なく頷くと番号を打ち込んだスマートフォンを耳に当てた。
その後、世界史教師は逮捕され、咲良は一度病院で検査した後暫くは自宅療養する事となった。
校内で渦巻いていた不穏もなくなり、平穏が訪れたかの様に思えたのだが……。
事件解決から数日間、朝から夕方まで颯真は校内で落ち着く場所を見つけられなかった。マカの存在を認識出来ない咲良にとって、憎むべき敵を打ち倒したのは紛れもなく颯真であって。咲良が少しずつ警察に話し始めた事件の内容で明らかとなり、知らぬ間に周りにも話が広がっていって颯真は一時人気者となったのだった。
特に、女子達から「イケメン」と言う称号を得て空前のモテ期到来。男子達が羨むそれを、颯真はあまりよく思っていなくて。初めのうちは鼻の下を伸ばす事もあったが、次第に鬱陶しくなってまた元の気ままな独りに戻りたいと願うばかりだった。
その時期に颯真へ密かに恋心を抱いた少女のせいで、大変な目に遭う事などこの時の颯真は想像すらしていなかった。