Ⅳ.
その日の帰り、颯真は両足を自宅の方角へは向けずに、別方向へ向けて歩き出していた。空は東の方からどんどん夜が迫って来ており、西の空を真っ赤に染め上げる夕影だけが昼と夜を繋ぎ止めていた。
多くの人々が往来する大きな駅。颯真は、そこに隣接するビルの一角で営業中のネットカフェの個室に閉じ篭った。
明日は土曜日だから、太陽の顔色を覗って早朝からベッドを出る必要もない。今夜は時間の許す限り、独りきりの時間を満喫しようと思ったのだ。
勿論、颯真は独りきりではないのだが。
颯真は態と溜め息を吐き、扉前に佇むマカを一瞥した。
「個室なのに、一人じゃないってどう言う事だよ……」
「皆に守護霊がついているのだから、常に一人って事はないわ」
「普通は守護霊とこんな風に会話出来ないだろ」
「じゃあ、静かにしているわ。キミは気にせず一人の時間を楽しんで」
「あ――これじゃ、家に居る時と対して変わんねー……」
颯真は己の髪をくしゃくしゃに掻き乱し、ドリンクバーで注いで来たコーラを口内に流し込んだ。
グラスを持っていない方の手で、マウスをカチカチ動かしてネットの世界に意識を集中させる事に努める。
液晶画面上には、横へ並ぶ文字と、関連画像が時々間に挿入されていた。それらは、颯真が入力した単語によって、表示されたものだ。
「何を調べているの?」
マカの声が間近に聞こえ、颯真が横を見ると綺麗な横顔がそこにはあった。禍々しい赤の双眸は、液晶画面の光を取り込んでいる為か、幼子の様にキラキラ輝いていた。
一人の時間を楽しんで、って言ったばかりなのに……と、颯真は呆れ、溜め息混じりに答えた。
「吸血鬼だよ」
「吸血鬼」
画面上には、確かにその単語が所々あり、画像も牙を生やした口から血を滴らせる人物であったり、寝床にしている棺桶であったり、かつて住んでいたとされる古びた屋敷などが多く並んでいた。
にんにく、銀の弾丸、聖水など、世間一般に知られる弱点も記されていた。
マカが何も言わなくなり、不思議に思った颯真が盗み見たその横顔は好奇心と言う名の輝きがすっかり失せて、綺麗過ぎるぐらいの真顔になっていた。
「マカ……? えっと……」
「何で吸血鬼なの?」
鋭い声。
益々、颯真は狼狽した。
「何でって、弱点が分かれば安心かなって。お前、吸血鬼……いや、眷属? だろ?」
「私が? 違うわよ?」
「え…………」
数秒の間。
クスクス。短い静寂を割いたのは、マカの笑い声だった。
「もしかして、棺桶……かしら? けれど、残念。これは吸血鬼の寝床ではないわ。まあ、私の主様は吸血鬼でないにしろ、キミたち人間からしたら得体の知れないって事は共通かもね。そして、眷属と言うのも強ち間違ってはいないわ」
「主様……」
「何を心配したのか知らないけれど、私は私の役目を果たすだけ。だから、事が終わるまでは主様のご命令通りキミを守護するから安心してね?」
「あ……うん」
颯真の不安はあっさりと消滅し、後に残ったのは拍子抜けする程の平凡な空気だった。
結局、高校生と言う身分では時間よりも圧倒的に金銭に余裕がなかった為、数時間でご帰宅となった。
面白くないと思いつつも、金がなければどの店にも相手にされないと言うのが常識。不服に表情を歪めさせ、ネットカフェの入っているビルに背を向けて歩き出した。
丁度帰宅ラッシュと重なったのだろう。駅に近付くにつれて、人が多くなった。
不快なその人の波をうんざりした顔で突き進んでいる時だった。
急に人の波が両断された……正しくは人が次々と倒れていったのだ。そして、無事だった者達も悲鳴を上げて散っていく。
驚いた颯真が辺りを挙動不審に見回すと、鋭い赤の双眸がパッと目に付いた。マカだ。
マカは人集りの向こうを見つめていた。
「な、何が起きているんだ」
「強欲……。地獄行きは免れないわね」
「は? どう言う意味だよ」
マカは騒ぎの元凶たる何者かに釘付けで、全く颯真を視界に入れていなかった。
マカに視えているのは、全身黒尽くめの人物が刃物を片手に次々と人々を傷付けて懐や鞄から手際よく金品を奪い取っている光景。大胆だが、それ故の残忍さが窺える。
颯真の周囲がどんどん開けていき、気付けば颯真の目にも残忍な犯人の姿が鮮明に映った。
鮮血が滴る刃物……。
返り血を浴びた身体……。
そして、黒いフードの下から覗く人間離れした恐ろしい悪魔の顔。
悪魔の猟奇的な双眸が逃げ遅れた無力な少年をギンッと捉え、血色の悪い唇が歪んでいき……颯真の脳内で警鐘が鳴り始めた時にはもう、一歩を踏み出していた。
しかも、その一歩がかなり大きく、一瞬間のうちに距離が縮められていく。
悪魔の刃が振り下ろされる寸前、間に入ったのはマカ。
マカは相手に向かって右の手の平を向けると、不思議な力で悪魔を吹き飛ばした。
犯人は刃物を手放し、地面に仰向けになった。
颯真はそれを確認するや否や、くるりと方向転換して走り出そうとした。が、透かさずマカの手が伸びてきて、首根っこを掴まれた。
「ちょっと! 何で逃げるのよ」
「何でって、もう少しで俺死ぬとこだったんだぞ!? い、今のうちに逃げなきゃ」
「それはそうだけど、私が気絶させたから大丈夫よ。それより、本当に命が危うい人も沢山いる! もしかしたら、もう……。だから、今すぐに警察と救急に連絡しなさい」
「え……。だけど、俺には関係な……」
マカの眼光が鋭くて颯真は最後まで自分の意見を貫く事は出来ず、渋々ズボンのポケットからスマートフォンを取り出して番号を打ち込んだ。
昨日の事は早速ニュースになった。
不気味な連続通り魔は逮捕され、被害者は重症の者が居たものの多くは軽傷で済んだようだった。
「へぇ……。また近いところでそんな事があったのね。しかも同一犯」
向かいの席で母がスクランブルエッグをフォークで突っつきながら、テレビニュースに関心を寄せていた。
颯真は心底興味ない様子で、さっさと朝食を口へ押し込んでホットコーヒーで一息つく。頭にあるのは今日から明日までの休日をどう楽しく過ごそうかと言うことだけ。心なしか背後に居るマカの視線が冷ややかだが気にしている余裕はない。
「そう言えば、昨日はどこ寄り道していたの?」
「え……」
突然の母の視線と質問。深い意味は含まれていないであろうが、まさにテレビに映っている現場に居合わせただなんて言える筈がない。
颯真がすぐに答えられないでいるとすぐに興味をなくした母は、テレビに視線を戻して寝言の様に呟いた。
「どうでもいいけど、最近物騒だから気を付けなさいよ」
「あ、ああ……」
ニュースは別のものへ切り替わる。有名コーチが選手にパワハラをしたと言う内容だった。コーチは取材に対して涙ながらに謝罪の言葉を何度も繰り返しているが、あまりに機械的で誠意はあまり感じられなかった。こんな事、今の世の中珍しい事ではない。颯真も母も気にも留めない中、マカだけが赤い双眸を怪しく光らせてテレビの向こうの彼に静かに言葉を投げた。
「傲慢ね……」
それは誰の耳にも心にも響く事はなく、世間の何処にも闇など存在していないとでも態々訴えるかの様な軽快で軽薄なコマーシャルの音声に掻き消された。