Ⅲ.
カーテンの隙間から差し込んだ陽光が瞼を叩き、颯真は夢の世界から強制ログアウトさせられた。言う事の利かない瞼を無理矢理開くと、ぼんやりと現実が映し出された。
主人公が止まったままプレイ時間だけが積み重ねられたゲーム画面、膝からずり落ちたコントローラー、飲みかけのコーラに食べかけのスナック菓子……すべてが起きる前のままだった。
唯一違うのは、肩にブランケットが掛けられている事だ。
「一体誰が……」
視線を彷徨わせると、すぐ隣に棺桶を背負った黒髪赤目の少女が立って居た。
颯真は軽く驚いた。
「お前、まだ居たのか……」
いっそ夢であれば良かったのにと思った。そうでなければ、せめて役目を終えて退散してくれていれば助かった。
マカは気を悪くするでもなく、淡々と事実を述べる。
「なかなか収束がつかなくてね。まだ、キミの所に居る事になりそうよ」
「収束ぅ? 相変わらず言ってる事分かんね」
「それよりも、寝る時はきちんと布団で寝なさい。風邪を引くわよ。さすがにその手の病魔からはキミを護れない」
「ああ……分かったよ。何か先生みたいだな、お前。…………ありがと」
颯真はマカから視線を逸らし、てきぱきと後片付けと朝の支度を整えた。
ネクタイを軽く締めながら階段を下りていく。
玄関へ向かう父と鉢合わせたが、挨拶する父を無視して颯真は洗面台へ向かった。振り返ったマカが見た父の背中は、やっぱり寂しそうだった。
リビングでは、母が既に朝食をテーブルに並べて席に着いてテレビを見ていた。
目の前に腰を下ろした颯真に、母は「おはよう」と言ってすぐにテレビ視聴に戻った。
本日の朝食は普段と殆ど代わり映えない、白米、味噌汁、納豆、漬物、焼き魚のオーソドックスな純和風メニューだ。違いがあるとすれば、昨日の味噌汁の具と焼き魚の種類が違う所ぐらいだ。
特に食に強いこだわりのない颯真は、特別不満になる事もなく、日常生活の一環として朝食を食べ始めた。
マカはじっと、颯真の行動を見ているだけで腹を空かせた様子は全く見せない。守護霊代理として存在する彼女には実体がない故、食事の必要性がないのだろうが、姿がハッキリと見えている颯真は落ち着かなかった。
(そういや、マカが見えるって事は他の守護霊も見えたりするのか?)
テレビに夢中になっている母の背後をこっそり凝視してみる――――と、守護霊を見つける前に母に見つかってしまった。
「颯真? 私の後ろに何か居るの?」
母は振り返り、何も居ない事を認めると首を傾けた。
颯真も母と同じ目しか持ち合わせていなかったので、慌てて首を横に振って言葉を濁した。
母はそれ以上追求する事はなく、興味を無くした様にまたテレビの視聴に専念し始めた。
颯真は味噌汁を一口飲んで落ち着き、母にバレない様にマカに耳打った。
「……母さんには守護霊が居ないのか?」
「そんな訳ないじゃない。そうでなければ、今頃――――あんな風になっているわよ」
マカが赤の双眸を向けた先は、テレビ画面だった。
人が時々行き交う朝の道路が映し出され、電柱の下には真新しい血痕が残されていた。マイクを手にした女性アナウンサーがハキハキとした声で、状況説明をしていた。
『昨夜十一時頃、こちらの場所で帰宅途中の会社員の男性が後ろから突然現れた何者かに刃物で背中や腕を刺され、すぐに病院に運ばれましたが未だ意識は戻らず重体です。そして、一時間後の午前零時、現場から数百メートル離れた場所でも女性が背中を刺されて重傷です。いずれも、近辺のコンビニの防犯カメラに全身真っ黒な服装の男と見られる人物が映っており、その人物を容疑者として行方を捜しています。そして、被害者全員の持ち物から財布が盗まれている事から、犯人が持ち去ったと見られています。以上、現場からでした』
「恐いわね……。あそこ、買い物に行く時に通るのよね」
母が頬杖をついて困惑の表情を浮かべ、同感とばかりに颯真も頷いた。
颯真はマカの言わんとしている事に気付き、また母の目を盗んでマカとの会話を再開した。
「つまり、守護霊が居ないとああなると」
「厳密に言えば、被害者には守護霊が居るのだけれど。守護霊にも強さが個々によって違うから、あらゆる災難を回避出来る人も居れば、今回の事件の様に被害に遭ってしまう人も居る。守護霊の強さは所有者のメンタルの強さに比例すると言われているわ。あとは、家系によっても決まってくるわね。守護霊が居ない人は幸せなんて感じる間もなく、殺されているわ」
「へぇ……。お前はどうなんだよ?」
「私? そうね。元々私の守護する対象は人間ではないからね。比べようがないのだけれど。所有者に存在を認知させる事が出来るぐらいの強さは持っているわ。よっぽどの事がない限り、キミは安心安全よ」
「一体何を守護してんだよ……」
颯真はマカの背中の物体を改めて確認し、ゴクリと唾を飲み込んだ。
(棺桶……。棺桶ってーと、吸血鬼……か? と言う事は、コイツは眷属!? どうりで普通の食事には手を出さねーわけだ。じゃあ、血? 守護した対価に血を求められたらどうしよう……)
少しも事実に掠っていない事を頭に並べ、一人戦慄する颯真。そんな彼をマカは大きな赤い瞳で、不思議そうにずっと見ていた。
いつも通学で使う駅は、昨夜の強盗通り魔事件のせいで多くの警察官や報道人達で溢れていた。
ここまで多くの目が飛び交えば住民の安全が保障される反面、犯人がより遠くへ逃げ込んで引き篭ってしまうのではないかと心配も増す。が、己の安全が確かならば、颯真にとって何でもよかった。今は唯、人の多さにうんざりするばかりだ。
眉間に深く皺を刻み、手馴れた様にICカードをタッチさせて改札を潜った。
改札を抜けても、変わらずに人は多い。
颯真と同じ様に学校へ向かう者、背広を着て出勤する者、大きな鞄を提げた旅行客らしき外国人夫婦。彼らとぶつからない様に、器用に間を摺り抜けてホームへ続く階段をヒョイヒョイと上っていく。
「……と、あぶねー」
行く手を遮る背中にぶつかりそうになった。高齢のお婆さんだった。手摺を左手で掴み、元々曲がった腰を更に曲げてぜぇぜぇと荒い呼吸を繰り返していた。
マカがお婆さんを心配そうに見つめていると、颯真は何事もなかったかの様に歩みを進めていってしまった。
マカは仕方なく颯真についていき、最上段に辿り着く頃にもう一度振り返ると、颯真と同じ高校に通う女子生徒がお婆さんに手を貸していた。
間もなく電車が到着し、颯真は人の波に飲まれる様に車内に乗り込んだ。お婆さんに親切にしていた女子生徒は、ギリギリ乗り遅れてしまった。
教室に規則的に並べられた席は窓際二列目の一席を除き、全て埋まっていた。
教壇に立った担任教師は空いた席を不審な目で見て、朝のホームルームを開始した。
颯真は担任の話を右から左へと聞き流し、机に上体を預けてだらだらと全く関係ない事を考えていた。他の生徒達も、姿勢を正して真面目に聞いている者はごく一部。皆、この退屈な時間が終わる事を心から願っていた。
そんな折、勢いよく後方の扉がガラリと開け放たれた。
「遅刻してすみません!」
扉の前には女子生徒が立っており、腰を綺麗に前に折り曲げた。サイドで二つに結った髪が鞭の様に空気を叩いた後、重力に従って前に垂れた。
クラス中の視線は女子生徒に集中した。
担任は始めはポカンとしていたが、すぐに持ち前の冷静さで女子生徒を席に着く様に誘導した。
目の前で椅子に腰掛ける女子生徒を興味なさげに見る颯真の傍ら、マカは彼女の遅刻理由を理解して颯真に批難の目を向けた。
そう。女子生徒はお婆さんに手を貸した結果、電車を逃してしまったのだ。あの時、颯真も手を貸していたのなら、彼女は遅刻せずに済んだかもしれない。
幸い女子生徒の怒りの矛先は颯真にも、勿論お婆さんにも向かなかった。それどころか、彼女は健気にも颯真の方を振り返り、「おはよう」と小声で挨拶したのだった。