Ⅰ.
チャイムの音が鳴り出すと、クラス中の空気が一気に緩んだ。
次第にざわめきが増す。
帰り支度を終えた者から順番に、教室を出ていった。
颯真も机上にどっかり置いた通学用鞄に、筆記用具などを無造作に押し込んで彼らの後に続こうとした。
「痛っ……」
その時、使っていた右腕がジンっと痛んだ。
颯真の右腕には、包帯が巻かれていた。
昨日の下校時、地獄の様なホームを脳裏の片隅に置きながら、いつも通りに最寄駅で降りて帰路を歩いていたのだが……。
角を曲がれば自宅前だというところで、脇道から猛スピードで自動車が走り抜けてきた。幸い、すぐに気付いて避けたが、その拍子に転んでしまい、右腕を負傷してしまった。
痛みの中、何とか帰り支度を済ませた颯真は他のクラスメイトに続いて教室を後にした。
「え?」
校門の前、颯真は立ち止まった。
他の生徒達は颯真を不審な目で一瞥しながら、校門を潜っていく。
皆が平然と通り過ぎていくその場所には、颯真よりももっと不審な目を向けなければならない人物が立って居た。
風に揺れる黒い長髪に、漆黒のワンピース、そして……背中を覆い隠す大きな棺桶――――あの少女だった。
颯真は目を擦り、頬を抓ってもみたが、変わらず少女の後ろ姿があった。
少女が振り返り、赤い瞳に颯真唯一人を映した。
人形の様な綺麗な顔に、ドキリもするし、ゾクリともする。
颯真は恐る恐る少女に近付き、平静を装って話し掛けた。
「お、お前……。そんな馬鹿でかい棺桶、ファッションにしては無理あるだろ。通報されるぞ」
「誰と喋ってんの?」
応えたのは少女ではなく、颯真の後ろにいつの間にか立って居たクラスメイトであり友人でもある昭國だった。
颯真は彼の言った事に驚いた。
「誰って、そこに居るだろ。棺桶背負った女の子……」
「はあ? 棺桶? 女の子? 大丈夫か、お前。幻覚でも見てんじゃね?」
「えっ? そ、そうなのかな」
颯真は昭國の訝しげな顔を見た後、少女に視線を移した。
少女は確かにここに居る。けれど、誰にも見えていない。
昭國が立ち去った後、颯真は恐くなって、少女の脇を走り抜けた。
暢気に談笑しながら歩く生徒達をぐんぐん抜いて、丁度青に変わった横断歩道を一気に駆けていく。
時折後ろを振り返ったが、少女の姿はどこにもなかった。
(よかった……)
安堵し、前を向いたその時だった。
突如、颯真の視界に自動車が映り込んだ。物凄い勢いで、こちらへ向かってくる。
(おいおい! ここ歩道だぞ!?)
慌てて避けようとするも、逃げ場がない。
自動車が間近に迫ってきた時、咄嗟に颯真は瞼を閉じた。
――――ドン!
激しい衝突音がし、颯真は瞼を開いた。
すると、自動車が街灯に衝突して煙を吐いていた。
今、確実に颯真の目の前まできていたのに、不自然に軌道がずれた。
「一体何が……――――あ。お前」
自動車の傍に、棺桶少女が立って居た。
目が合った瞬間、颯真はまた身震いした。
少女は重たそうな棺桶を、平気な顔で背負い直して静かな声で言った。
「今日は間に合って良かった。昨日はすぐに行けなかったから、そんな怪我までさせてしまった」
チラッと、颯真の腕に視線を向けた。
颯真は訳が分からず、腕を後ろに隠して後ずさった。
「な、何なんだよ……。言ってる事、全然分かんねーよ」
「申し遅れたわね。私はマカ。キミの守護霊代理よ」
「しゅ、守護霊!?」
颯真の視界に、マカの背中からはみ出している棺桶が映る。
「今、キミの守護霊はね……」
マカの話を聞かず、颯真は走り出した。
(本当に何なんだ! あの娘は幻覚じゃないのか? 守護霊とか代理とか、意味分かんねーよ)
颯真の頭の中は大混乱。
そんな頭を目掛け、真上から植木鉢が落下してきた。
「うわっ」
またも、寸前で軌道がずれて斜め前で砕け散った。
そして、またも、そこにマカが居たのである。
颯真は驚きと恐怖のあまり、固まってしまっていた。
「少し落ち着きなさい。さっきの話の続きなんだけど、今、キミの守護霊は不在なの。だから、護ってくれる存在が居なくて危険なのよ。彼が戻って来る間、私がキミを護るわ」
「しゅ、守護霊が不在!?」
漸く喉の奥から出た声は掠れていた。まだ、颯真の心はマカに対する疑いで一杯だ。
「そ……そんなの……信じてないけど、仮に本当だとして。仕事サボってどこ行ったんだよ」
「本当の事よ。現にキミ、昨日怪我したじゃない。それは守護霊が居なかったからよ。そして、今日怪我しなかったのは私が代理を務めたからに他ならないわ」
「それは……たまたまで……」
「あと、あまり彼を責めないでちょうだい。彼は今頑張っているの。誰よりも大切なキミの為に」
「何だよ……ソレ。つーか、俺はこんなの信じねーからな! お、お前も守護霊ゴッコしてねーで家帰れよな」
その場を逃げる様に、颯真は再び走り出した。
自宅に着く間で、幾度となく颯真に災厄が襲いかかったが、その度にマカが守護した。
マカの方を一切見ず、自宅へ駆け込む颯真の背中に、マカは溜め息を吐いた。
「やれやれ」
玄関に転がり込んできた颯真に、出迎えに来た母は目を瞬かせた。
「お、おかえり。やけに今日は慌てているのね。見たいテレビでもあるの?」
颯真は靴を脱ぎ捨て、母の隣を通り過ぎた。
「いや。別に何も……」
振り返った先には母と、更にその先にマカが居た。
颯真と共に家に上がった少女の事を、母は気にも留めていなかった。
やはり、マカは颯真にしか見えないのだ。
母は颯真の視ていたところを見、首を傾げた。
「何か居るの?」
「別に、何も居ねーよ」
「そう? 荷物置いたらリビングへいらっしゃい。もう夕飯出来てるから」
「ああ」
母と一旦別れを告げ、颯真は前方の階段を上がっていった。
マカは何処までも、颯真について来た。
颯真は鞄をベッドに放り、扉の前に立って居るマカを一瞥した。この時には、もうマカに対する恐怖心は消えていた。
「あのさ……。お前が人間じゃない事は分かった。けど、俺に付きまとわないで、ちゃんと成仏してくれよ」
マカは小首を傾げた。
「私死んでいないし、それはおかしいと思うのだけれど」
「はあ?」
「ねえ、この写真の子は?」
いつの間にか颯真の隣に居たマカは、机上に視線を向けていた。
無造作に参考書などが散乱するそこで、唯一写真立てが綺麗な状態を保っていた。照明を浴び、写真の中の少年二人が肩を並べて笑顔を弾けさせていた。
右側は颯真で、マカが指差すのは左側の細身の少年だった。
颯真は息を吐き、気怠そうに答えた。
「親友だよ。……半年前に死んじまったけど」
「ふぅん……」
マカがもう一度しっかりと颯真の親友を赤い双眸に焼き付けているうちに、颯真が歩き去って行き、マカは特に慌てる様子もなく、ごく自然な動きでその後をついていった。
二人揃って階段を下りると、丁度玄関が開き、背広姿の男性が入って来た。彼は颯真の父親。ところが、相手が「ただいま」と挨拶したのにも関わらず、颯真はまるで通りすがりの赤の他人をあしらうかの如く、全く相手にせずに一瞥もやらなかった。
振り返ったマカの目には、悲しそうな父の姿が映っていた。
マカは颯真をそっと呼び止める。
「ねえ、どうしてあからさまにそんな酷い態度をとるの? 冷たいじゃない」
颯真はリビングへ足を踏み入れながら、マカにだけ届く声で返した。
「……アイツは昔から仕事ばっかで、俺や母さんの事はどうでもいいんだ。だから、俺も相手にしない」
「どうでもいい……それはお父さんが言ったのかしら?」
「言わなくたって分かるよ」
颯真は、料理が所狭しと並ぶテーブル席に着いた。
父は廊下から母へ挨拶をした後、浴室へ向かった。
母は颯真の向かいに腰を掛けた。
母の視線の先にはマカが立って居るが、母の目には映らなかった。
「いただきます」
颯真は母に届くか届かないかぐらいの声量で言い、食事に手をつけた。
母とは全く会話せず、テレビの音声だけが食卓を盛り上げた。
食事を終え、暫くテレビに夢中になっていると、一つの足音が近付いて来た。
そうして、その姿が明らかとなる前に、颯真は後片付けもしないまま席を立った。
颯真が階段を上っていくと、石鹸の香りを纏わせた父がリビングへ入り、母と他愛ない会話をしながら食事をし始めた。