Ⅶ.
「――っ!?」
ジロリジロリ……キョロキョロ……
無数の目玉が覗いていた。あの想像していた可愛らしい妖怪などではなく、人間のものだ。
目玉しかないのに、甲高い笑い声が木霊する。
颯真は全身の力を使い、力尽くで引き出しを押し込んだ。
声も気配も一瞬で消えたが念の為押さえつけておく。
プツリと明かりが消え、仄暗くなった。
ガタン!
今度は壁掛け時計が独りでに落ち、更にはノイズ音が背後から聞こえてきた。振り返れば、テレビが勝手に点いていて画面が砂嵐状態だった。
カーテンが風もないのにゆらゆら揺らめく。
状況の掴めない颯真が辺りを不安げに見回すと、壁に野球ボール程の黒いシミが浮き出ているのを発見した。
「昨日までは……いや、さっきまではなかった!」
後半叫ぶように言うと、先程の甲高い笑い声が返ってきた。
そして、シミはどんどん拡大していき最後には人型になった。これは帰宅途中に道端で襲ってきた得体の知れない奴だ。
「こんなところにまでついて来やがったのか……!」
全身から一気に血の気を失い、真っ青な顔で後ろへふらり。覚束無い足取りでそのままの向きで下がっていく。傍らにはマカがしっかりと役目を果たすべく待機。
不気味な人影はたった一言の呪詛をノイズ混じりの声で繰り返し、ゆらり……ゆらり……と歩み寄って来た。
意外と動きが速い上、颯真の足は錘を付けているかの様にずっしり重くなって思うように動かせなくなった。
それでも、少しは動いてくれ足を引き摺るようにしてやっとの事背中に扉の感触を得た。
後ろ手にノブを捻り、廊下へ転がり出る。
扉の隙間から人影が「うーうー」と呻きながら手を伸ばし、出て来ようとする。颯真が扉を押さえつけると、内側からドンドンドンドンと激しく扉を叩く音が響き衝撃で扉全体がガタガタと震えだした。今にも壊れてしまいそうだ。
「颯真――? 何してるの? 騒がしいわよ」
下の階から母が顔を覗かせ、階段を上って来ようとした。
「か、母さん!」
この際恥じらっている場合ではない。藁にもすがる思いで母が来てくれるのを待った。
母の姿が見えてくると、招かれざる客人はスゥッと消えていった。
颯真は扉に背中を預け、床にへたり込む。
「どうしたのよ。もしかして、ゴキブリでも出た?」
母は颯真の前に立ち、腰に手を当てて困惑の表情を浮かべた。
たかが昆虫だったら良かったのに……と心の中で苦笑し、颯真は立ち上がって階段を下りていった。
母は不満を零しながら後をついていく。
颯真は背後に向けて言った。
「何か疲れた。コーヒー煎れてくれ」
「疲れたって……いつも遊んでるくせに。いいわよ。私も今から飲むところだったから、ついでに煎れてあげる」
コーヒーは手軽なインスタントだったが、ほろ苦い香りと口に含んだ時の温かさがじんわりと疲れた心と身体をちゃんと癒やしてくれた。
颯真は食事の時と同じ席で母と二人、テレビドラマを観ながらほっと一息。
もうあの人影がやって来る気配はなかった。
ここに居ればきっと安心。颯真にのみ恨みを持った生霊はそれ以外には全く手を出せないし姿も見せる事は出来ないのだ。
あと、約一時間。母が就寝するまでの時間だ。それを過ぎれば必然的に颯真は一人になってしまう。
ところがその貴重な時間は玄関扉が開く音と「ただいま」と言う声であっさり終わりを告げた。
颯真は思いっきり渋面を作るとコーヒーを飲み干し、カップを机に叩き付けて席を立った。
入れ替わる様に父が鞄を提げてやって来て、相変わらず挨拶もせずに無愛想に立ち去った息子を振り返った。
「颯真がこの時間にリビングに居るなんて珍しいな」
「ええ。何か、さっき上で大騒ぎして。ゴキブリが出たのかしらと思ったんだけど、結局何だったのか聞いてないわね。疲れたからコーヒー煎れてくれって言われて、ここで一緒に飲んでいたのよ。昔から変わった子だったけど、最近は特に変だわ……」
「そうか。まあ、年頃だし色々あるんだろう。さて、飯を用意してもらっていいか?」
「分かったわ。少し時間かかるからその間にお風呂でさっぱりしてきて」
「そうするよ」
母は台所へ、父は浴室へ、それぞれ向かった。
颯真は今更自室へ戻る気にもなれず、無意識のうちに夜道を手ぶらで歩いていた。マカが程よいペースで影の様についていく。
「ご両親の側に居なくて大丈夫? また生霊に襲われるわよ」
「同じぐらい嫌なんだよ……」颯真は脳裏に父の姿を浮かべ、頭を振って追い出した。「それに、どのみち一人きりになる」
「それは外に出たところで変わらないんじゃないかしら。逆に、こんな時間に人なんて歩いてないから、生霊に襲われても助けてもらえないと思うのだけれど」
「そうだな。けど、夜になると盛り上がる場所ってのが世の中あるもんなんだよ。それこそ、自宅にいるよりも安全だ」
颯真はニッと笑い、生霊出没地帯を足早に通り抜けた。
目の前に広がるは地上の銀河、駅前の繁華街の明かりだった。颯真は数時間前に友人達と訪れた場所に、また足を踏み入れたのだ。
ただ、もうこの時間は颯真の様な十代の若者は場違いの様に思われた。周りは皆、仕事疲れを大量の金で癒やそうとしている大人達ばかりだ。
煌びやかな衣装に身を包んだ綺麗な女性達がそんな彼らに声を掛けては、怪しいネオンの店に引っ張っていく。路上で赤ら顔の男がふらふら、時折何か大声で叫んでいる。派手な光と音で夜半の静寂を切り裂くアミューズメント施設にも、人の出入りが昼間よりも多かった。
「確かに此処は眠りそうもないけれど、危ないニオイしかしないわね……」
マカは辺りをぐるりと見渡した。漆黒の棺桶美少女も、此処では場違いだった。
マカの存在を認識出来ない下心たっぷりの男達は、彼女の側を通り過ぎていく。中には空気の様に身体を通り抜けている者もいた。
「お前も皆に姿が見えてたら危ない目に遭いそうだな」
颯真が思った事をそのまま口にすると、マカは小首を傾げた。
「どう言う意味かしら?」
「いや、だって。見た目だけはその……綺麗、だし。美少女って感じだしさ」
言っているうちに、颯真の頬はほんのり熱を帯びていた。
マカは首をこてんと反対側に倒した。
「私が? ……仮初の姿なんだけれどね」
「は? 何か言ったか?」
「いいえ、何でも。キミはそう言った面では危ない目に遭いそうもないわね」
「おい。どう言う意味だ」
「そのままの意味よ? それでも、安全ってわけじゃない。あらゆる危険から私がキミを護るわ」
「是非そうしてくれ……」
平気そうなフリをしていても、颯真もまだ子供。内心は大人の世界に恐怖を抱いているのだ。力では絶対に敵わない。此処は実体のないマカと同様の存在を演じなくてはならない。
自分は空気。唯の通りすがり。何も害のない人間。だから、誰の目にも留まらず相手にしないでほしい。そんな事に時間を割くぐらいなら、お金を支払ってもっと楽しい事をしてほしい……そう願うばかりだ。
あいにくと今は手持ち無沙汰。態々襲う価値もない。
願いと演技がしっかりと働いて、賑わう街道を難なく歩く事が出来た。途中赤ら顔の男に遭遇したが、彼は大声で怒鳴り散らした後街路樹の根元でぐっすり夢の世界へ入っていった。
ネオンに誘われてぞろぞろ歩く大人達を、更にこっそり追い掛ける犯罪者が紛れている事にまだ皆は気付かない。颯真もそうであった。
何も知らずに犯罪者の方へ自ら近寄っていく主を、守護霊代理はきっちり呼び止めた。
「あっちはマズイ。引き返しま……」
「きゃああぁぁっ!」
「うわあぁっ!?」
「マジかよ!?」
「嫌っ! 誰か助けてぇ!」
尋常ではない悲鳴と共に、沢山の人が波の様に颯真の方へ押し寄せて来た。颯真が避けると、人々は勢いを止める事なく過ぎ去っていった。
開けた場所には沢山の人が血を流して倒れていた。
これはまさに、いつかの強盗通り魔事件の光景だ。
颯真と同じ方向に視線を向けているマカの表情も険しい。
倒れる人々の向こうには一台の自動車があり、それが凶器であった。運転席から男がふらり出て来て、千鳥足で足下に倒れている男の胸倉を乱暴に掴むと懐を漁り始めた。
「あれは強欲……でも、様子が。まさか」
マカは一人状況を察し、霊力を集めた。
「暴食ね。地獄の使者たる私が許さないわ」
そして霊力を解き放つ。が、しかし。
男の千鳥足は後ろへふらりとステップを踏み、偶然にも守護霊代理の強力な一撃を躱してみせた。
男は奪った金品を自分の懐へ堂々と入れ、さっさと車に戻って発進させた。
マカが次の一撃を放つ時間はなかった。
「しまった! 逃げられたわ……」
「おいおい、地獄の使者とかカッコ良く言い放っといてこれかよ。だせーな」
颯真が憫笑を浮かべると、マカは睨み返して倒れた人々を指差した。
「早く警察と救急に連絡しなさい」
「あー……俺、今スマホ持ってねーんだわ……」
颯真は両手を挙げ、目を泳がせた。
こればかりは事実だったのでマカはこれ以上颯真を咎める事はなかった。
遠くからけたたましいサイレンの音が鳴り響いた。颯真が連絡せずとも、もう既に現場に居合わせた誰かが連絡をしてくれた様だった。