Ⅵ.
室内灯が点いていない一室に、机上の電気スタンドの明かりだけがポツリと浮かぶ。そこに揺らめくのは小柄な人影。その手は忙しなく筆を動かし、分厚い日記帳のページを歪な文字で埋めていく。
その人物の表情もまた、歪であった。
「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね! あはっ……あははははは!!」
最後の行を同じ単語で埋めると、ポキッとシャープペンシルの芯が折れた。
久しぶりに友人達と騒いだら、思いの外時間が過ぎるのが早く感じた。また明日も学校と言う事で楽しい時間を惜しみつつも、皆割り切って家路を辿った。
もう喉はカラカラ。何度も咳払いをしながら、颯真はマカを引き連れて歩いて行く。
ひたひた……ひたひたと、不気味な影が忍び寄る。
颯真は足を止め、振り返った。
「……誰も居ない」
街灯に寂しく照らされる電柱があるだけだった。
マカは険しい顔をした。
「生霊ね。前よりも憎しみが強くなっているわ。今は逃げましょう。捕まったら、キミの精神が壊れてしまう」
「マジかよ。もう……意味分かんね。俺が一体何したってんだよ」
颯真は歩行速度を上げ、遂には走り出した。
ひたひた、ひたひた、ひたひた……
比例して尾行者の足音も早くなった。
段々と気持ちの悪い息遣いが聞こえ、更には甲高い笑い声が聞こえて来た。これだけ大声を出せば、近所から苦情が来そうなものの明かりの点いている民家の中で人影が動く事はなかった。つまり、颯真とマカにしか認識出来ない厄介な存在であった。
颯真は時折後ろを気にしながらも、必死に走った。家までは結構遠い。普段は気にならない程度なのだが、今はもどかしい。早く住み慣れた場所へ帰りたい、その一心だった。
次第に息が続かなくなってきた。得体の知れない恐怖心が上乗せされ、底知れぬ疲労感と倦怠感が尾行者より先に颯真を襲う。
この苦痛が続くのならば、いっそ立ち止まってしまおうか。そんな血迷った判断を下そうとした颯真を目映い二つの光が照らした。
「颯真!」
マカが颯真を押し退け、前方へ霊力を飛ばした。
キキーと音を立て、迫って来ていた自動車が停止した。
颯真は僅か数センチ先にある鉄の塊を見、瞠目した。心臓はバクバクと跳ね上がる。
運転席の窓が開き、無精髭を生やした中年男性が顔を出した。眉間には深く皺が刻まれている。
「クソガキ! 急に飛び出すんじゃねーよ」
「は、はい……すみません」
心此処にあらずと言った様子で颯真が謝罪すると、男はペッと唾を吐き捨てアクセル全開で去って行った。
こうしている間にも何者かの尾行は継続されており、もうすぐそこにまで迫って来ていた。
颯真の隣には不鮮明な人影が並んでいた。嫌でも視界に入った。息遣いも間近。これは男なのか、女なのか、子供なのか、大人なのか、老人なのか……寧ろ、自分と同じ種族なのかどうかも分からない。地獄の使者たるマカには感じた事のない、不快感と恐怖。
どうしたらいいのか分からない。足は動く事を禁じられ、喉は声を発する事を封じられてしまった。そう、これが極限状態なのだ。
実体のない相手にマカも対抗する術を持っておらず、じりじりと動く空気に身構える事しか出来ない。
人影はニヤリと、口が裂ける程の笑みを浮かべた。
「死ね」
たった一言。それだけなのに、地底から湧き出たかの様な悍ましい声の持つ威力は凄まじかった。一瞬で恐怖に縛られた颯真の心に止めを刺した。
生ける屍となってしまった颯真に、容赦なく人影は襲いかかる。
人間にしては長い両腕が伸びて来て颯真を抱き締めると、まるでイソギンチャクの様に絡め取ろうとする。
颯真の全身が深い闇に覆われていく。
虚ろな両の目は光を映さない。散々感じていた恐怖心も闇に呑まれてしまった。
再び繰り返される呪いの言葉は耳ではなく、脳に直接響き渡る。
常闇と悍ましい声とが創り出す異質な空間は居心地が悪く吐き気がする程であるが、もう颯真にはそれを感じる余裕すらなかった。
悍ましい声に混じり、マカの声が……そして、見知らぬ男性の声が響いて来た。
「おい、キミ!」
何度も、何度も、颯真を呼び、硬直した身体を揺する男性。
何度目かの呼び掛けで漸く颯真は生気を取り戻し、まだぼんやりとした瞳にスーツ姿の男性を映した。
「あれ? あんたは……。てか、あれ? 俺はどうしたんだっけ」
「僕は唯の通りすがりだよ。キミが道の真ん中でぼんやり突っ立ってて、何となく様子が変だったから声掛けたんだ」
「あ、ありがとうございます……?」
まだ夢現な様子の颯真を再び男性が気遣い、病院へ連れて行こうか? 家まで送ろうか? などと、唯の通りすがりとは思えない程優しくしてくれた。
だが、颯真は首を横へ振って男性にぺこりと頭を下げて立ち去った。ここまでは半ば無意識だった。
不気味な尾行者はいつの間にか消えていた。
自宅の玄関扉を開け、靴も脱がずに一息ついた。安心出来る景色と匂いに落ち着きを取り戻し、背後に居る守護霊代理と冷静に先の出来事を分析する。
「あれが本当に生きた人間の創り出せるもんかよ。マジでヤバかった……」
「ええ。私も全く手出し出来なかったわ。あの人が通りかからなければ本当に大変な事になっていた……。一刻も早くキミに強い恨みを持つ人を見つけなければいけない」
「ああ。あの人、いい人だったなー……」
今になって、闇に呑まれた筈の恐怖心がひょっこり顔を覗かせて全身を寒くした。
男性が通り掛かったのはまさに奇跡。もし、別の道を通ったら? もし、少しでも時間がずれていたら? 颯真は男性に出会えなかったかもしれない。そして、もう一度颯真の身に同じ事が起きたとしても、同じルートは用意されていないかもしれない。そう思ったら、また全身が寒くなった。
「颯真? 帰って来たの?」
母がリビングから出て来た。
特別美人でもなければ、不細工でもない、何の特徴もない毎日見ている顔を見た瞬間、肩の力が抜けた。
無事に家に帰って来たんだ……。そんな事、昨日までは気にした事がなかったのに。極限状態を経験した後の“当たり前”は本当にありがたかった。
颯真は母に悟られぬ様、いつもの可愛げのない息子を演じて玄関を上がった。
スタスタとリビングへ消えていく颯真を、母は困惑した様子で追い掛けた。
「え? ちょっと、ただいまは?」
颯真はそうだったと気付き、少しだけ母の方へ顔を向けて愛想の欠片もない「ただいま」を返した。
それからは普段通りの夜だった――――自室で一人の時間を過ごすまでは。
入浴を済ませ、自室でゲームをしようとすると、親ではなく守護霊代理が通学用鞄を指し示して「宿題」と命じてきた。
それまでは気分良く忘れていたのに、不意に現実へ連れ戻されて幻滅した。
明日提出のプリントは今からやらなければ間に合わず、間に合わなかった場合不利になるのは颯真本人である。
颯真が仕方なくマカの命令に従うのは当然の事だった。
勉強机の前にどかりと座り、机上を占めている参考書などの不要なものをザッと腕で払い除けてスペースを確保し鞄から取り出したプリントを置いた。幸い一枚だけで科目は世界史、割と得意だから早く終わらせる事が出来る。
世界史と言うと、女子生徒への性的暴行で逮捕された教師を思い出して急にだるくなる。今は別の教師が担当しているのだが、皆あの時の事がまだ記憶に新しい為にこの教師に対しても警戒を怠っていない。
サクサク問題を進めていると、丁度鳩尾辺りに圧迫感を覚えた。どうやら、内部からではなく、外部からの刺激だ。見ると、開けた覚えのない引き出しが僅かに開いて鳩尾に当たっていた。
不審に思いつつも宿題の邪魔なので、そっと閉めようとした。しかし、ストッパーでも付いているかの様にびくともしなかった。
引き出しの中からざわざわと声がした。まるで有名アニメ映画に登場する、古い家屋に住み着いて埃と煤だらけにしてしまう真っ黒な毛玉の様な形状の妖怪が潜んでいるかの様。
椅子ごと身を引いて、思い切って引き出しを開けてみた。