Ⅴ.
黒百合の事は昼休みになる頃にはクラス中に広まっていた。好奇心を同情の仮面で覆い隠して近付いて来る教師や生徒に嫌気が差し、颯真は彼らを振り切って静かな場所を目指した。
結果、いつもの屋上へ辿り着いたのだが本日は既に先客が居た。
「今日もお前、ここで昼飯か?」
颯真が声を掛けた相手は、結愛。彼女は角にちょこんと座って弁当を広げて既に食事を始めていた。
結愛は口をもぐもぐさせて小さく頷き、咀嚼してからちゃんと答えた。
「きょ、今日も七ちゃんお休みなの」
「ふぅん。そっか。具合でも悪いのかな」
颯真は隣に腰を下ろして購買のパンにかぶりついた。今日は卵がぎっしりのサンドイッチだ。
「うーん……私にもよく分かんない。あの子が休むなんて事、今まで一度もなかったんだけどな。あっ……と言うか、も……もしかして私邪魔?」
「ん? いや、全然。ま、ここ俺のテリトリーじゃねーし。公共の場だし」
「あ、ありがと……」
「何で礼言うんだよ」
「えっ……えっと、ごめんなさい」
「何で謝るんだよ。変な奴だな」
笑い混じりの柔らかな声に結愛が横を見れば、颯真が楽しそうな笑みを浮かべていた。
いつも何処か気怠そうな顔をしている彼もこんな風に年相応に笑うのかと、結愛は初めて見る表情に甘酸っぱさを胸一杯に感じた。
また、マカも意外そうな顔で主を見つめていた。
「そう言えばさ、」と颯真は真顔に戻して切り出して結愛は小首を傾げた。「黒百合の花言葉って知ってるか?」
「恋、呪い、だよね……?」
半疑問形であるが即答だった。
颯真は一つ頷くと続けた。
「俺は知らなかったんだけど、普通知ってるもん?」
「そうだなぁ……。男子は殆ど知らないと思うけど、女子はそう言うの好きな子多いし最近流行ってる漫画とかにもよく出て来るし知ってるんじゃないかな」
「なるほどな」
そうなると、黒百合の贈り主は女子と言う事になる。そもそも男子の性質上、あまりこの手の陰湿な嫌がらせはしない様に思われる。
さりげなくマカに視線を送ると、守護霊代理も頷いて同意を示した。
結愛はタコさんウィンナーをぱくり。もぐもぐ咀嚼して、思い出した様にまた話を続けた。
「七ちゃん。あの子、お花育ててね。よくお花の種類や花言葉なんかを話してくれた事もあったよ。最近は聞かなくなったけど」
「七ちゃん、ねー」
ぞくり。
その名を口にした途端、黒百合の様に不気味な視線を感じた。
颯真はマカと二人、同時に同じ方向を見た。閉めた筈の扉が少しばかり開いていた。
結愛も異変に気付き颯真の顔を見上げると、彼はスッと立ち上がって守護霊代理を引き連れてふらりと何かに引き寄せられる様に扉の方へ歩いて行った。
「颯真くん?」
引き留めようと伸ばした結愛の小さな手は、指先すら颯真に掠る事はなかった。
期待半分、恐怖半分、高鳴る心臓を気力で押さえつけながら颯真は扉に手を掛けた。
「あれ……?」
しかし、その向こうには誰も居なかった。居た形跡すらなかった。
颯真は数歩進み、手摺りから下へ続く階段を覗き込んで耳をすませてみるもやはり結果は最初と変わらなかった。
後頭部を掻きながら、渋い顔で結愛のところまで戻った。
「確かに誰かの視線を感じたのだけれど」
マカは颯真の隣に立ち、顎に手を添えた。
颯真は心の中で頷き、未だ疑問符を浮かべている結愛に「何でもない」と手を振って食事を再開した。
結愛は颯真がサンドイッチに大きな口でかぶりつく様子を数秒眺めた後、箸を進めた。
数日後の事。
颯真と結愛は屋上ではなく、渡り廊下でばったり出会った。
この頃はよく屋上で昼食を共にし、自然と打ち解けて最初よりも気軽に話せる様になった。特に、結愛の方が照れてもじもじしなくなった。とは言っても、目を合わせるのはまだ無理な様で、今も颯真ではなく手元の教科書を見て話していた。
他の生徒達の視線が彼方此方飛び交う中、一つだけ颯真の背中にピリッと突き刺さった。細い針の様な、小さな刺激。だけど無視出来ない痛み。
得体の知れぬ一撃の次は、背筋を逆撫でされる様なゾクゾクとした気持ちの悪い感覚に襲われた。
堪らず颯真は会話を中断させ、後ろを振り返った。
「七ちゃん!」
颯真が姿を認める前に、結愛がいち早くその名を口にした。
颯真は歩み寄ってくる七を見、目を瞬く。
間違いなく、七の立ち位置は颯真に怨恨の念を送っていた人物のもの。そうだと思ったのに、実際は大人しくて愛嬌のある女の子だった。とても、同一人物だとは思えなかったので、颯真はこの二つを結びつける事はしなかった。
結愛と七は久しぶりの再会を喜んでいた。
「七ちゃん、朝登校して来なかったから今日もお休みかと思った」
「そのつもりだったけど、体調良くなったから来ちゃった。えへへ、おはよー結愛ちゃん」
「うん。おはよう」
颯真ははしゃぐ女子達の間にはさすがに入れないと思い、そのまま立ち去ろうと二人の横を通り過ぎようとすると七と一瞬間視線が交わった。
七の方からすぐに視線を逸らし、結愛の両手をとって少し困った顔で訊ねた。
「も、もしかして付き合う事になったの……?」
「えっ!?」
颯真と結愛の声が重なった。
そう捉えるか……と、颯真は急に頭痛を覚えた。
結愛は頬をみるみるうちに桜色に染め、教科書で顔を半分隠して視線を彷徨わせた。
「そ、それは……まだなの。返事してもらってない……」
照れもあるが、颯真を責めるみたいで申し訳ない気持ちの方が勝っていた。
今度は七が「えっ!?」と声をあげ、颯真をじっと見た。
颯真は何か言われるのではないかと身構えたが、七は暫し視線を颯真に突き刺しただけでそれ以降は何もせず何も言わず、また結愛に視線を戻した。
「そうなんだー。仲良さげだったから、私てっきり……」
「でも、最近よく話すようになったから……仲良いのかも?」
「へぇ。私が休んでいる間に、ね」
七の声のトーンがやけに低く、視線も下げてしまったので結愛は不安になった。
気に障る様な事を言ってしまったのかな? と冷や汗が背中を伝って寒くなる。
颯真も女子達の微妙な空気の中に益々居心地の悪さを感じ、いつもの様に怠惰に背中を押されて立ち去る気でいた。
颯真が背を向け、結愛が悶々としていると、七は顔を上げてパッと顔に花を咲かせた。
「よかったねっ! 私、応援してるから。でも、今日は私といっぱいお話しようね? ずっと結愛ちゃんに逢えなくて私寂しかったんだから」
「あ、うん。ありがとう。私も七ちゃんと話したい事たくさんあるの」
親友の温度変化に少々戸惑いつつも、結愛もそれに答えて顔に花を咲かせた。
颯真は心の中で安堵の溜息をついた。
予鈴が鳴り出し、ゆっくりしていた生徒達が急に慌て出す。
颯真、結愛、七もそれぞれの向かうべき場所へ急いだ。
帰り際颯真は昭國を始めとする男友達数人に誘われ、カラオケに寄る事となった。
電車に揺られているうちに日は沈み、辺りは暗くなった。街灯や建造物の明かりが街中に溢れていき、せっかく地上を優しく照らしてくれようとしていた星々の輪郭を見えにくくした。
この時間帯は学校帰りの学生や移動中の会社員の姿が多く、安心感がある。が、決して安全ではない。日が落ちると、これまで陰に身を隠していた犯罪者達が気兼ねなく道の真ん中を堂々と歩く事が出来る様になるのだ。極度の心配性でなければ、擦れ違った人が懐に刃物を忍ばせているかもしれないだなんていちいち疑う事はない為、犯罪が起こるまではいつも平穏な空気に包まれている。
颯真達もその平穏さに胡座を掻いて、煌めく街道を他愛ない会話をしながらぞろぞろと歩いていた。
自動扉の中に吸い込まれていく若者達に続き、颯真達もそこへ足を踏み入れた。