Ⅳ.
***
颯真は家庭の事情で中学一年の頃、今の家に引っ越して来た。
この頃には既にこれから新たに通う中学校では親しい者同士のグループが形成され、余所者は入りづらい雰囲気となっていた。それでも、馴染んでいかなければならなかった。
颯真は人見知りするタイプではなかったが、かと言って社交的でもなかった為にすぐにグループの一員になる事は出来なかった。それでも、寂しいと言う気持ちは全くなく、どうでもいいとさえ思っていた。同級生とは必要最低限の会話が成立する程度でいい。独りの方が気楽だと言う、人間関係に対しての怠惰をこの時から持っていた。
クラスメイト達が体操服を抱え談笑しながら教室を出て行く最中、颯真は鞄を漁って溜息をついた。体操服が入っていなかった。
しかし慌てる事もなく、自分のうっかりを嘆く事もなく、冷静に鞄を閉じると教室を出てクラスメイト達が揃って向かう方向とは反対の方向へと歩いて行った。
転校して来て一週間だが、もう慣れたもの。校舎の見取り図はざっくりと頭の中にあった。
迷いのない足で向かうのは一階の角に位置する保健室。
そこで体操服を借り、速やかに着替えて昇降口へと移動する。
本日の体育の授業は屋外。この学校には第一と第二の二カ所のグラウンドがあって、場所が少し離れた所にあるのだが、颯真は校舎の真ん前の朝礼が行われる第一の方しか知らなかった。これから向かわなければならないのは、第二の方だ。
どうしたものかと考えながらも、辿り着いた下駄箱で運動靴と今履いている上履きを入れ替えた。
地面をトントン鳴らし靴にしっかり足を納めていると、不意に影が差した。少し下を向いていた頭を上へ向けると、体操着姿の男子が立っていた。
「やあ」
「あれ……。お前、同じクラスの……」
颯真が目を瞬くと、クラスメイトは眼鏡の縁を軽く持ち上げて少しだけ笑みを浮かべた。
「悠河だよ。キミは転校生の颯真くんだね」
「あぁ……そうだ。悠河だ」
一通りクラスメイトの顔と名前は覚えたが、悠河は印象が薄く何とか記憶している程度であった。
何というか、見た目が地味。性格にも見た目とのギャップはなく、物静かで真面目な印象だった。あまり、友達が居る風にも見えなかった。
そんな彼が自ら話し掛けて来た事が、颯真には不思議だった。真面目ではあるが、誰にでも気さくに接する優等生タイプにも見えなかったからだ。
「どうしたんだ? 忘れ物か?」
「いや。第二グラウンドの場所知らないんじゃないかと思ってね。もしかして、知ってたか?」
「あ、いや。知らない」
「それならよかった。じゃあ早く行こう。チャイムが鳴る」
悠河が走り出し、颯真は慌てて後を追った。
間違いなく彼は颯真を態々呼びに来てくれたのだ。ちょっと不器用だけど優しい、そんな好印象が悠河に追加された。
これを切っ掛けに、颯真は悠河と親しくなった。
休み時間に一緒に宿題をやっている時、颯真は悠河の使っている下敷きに目が止まった。繊細なファンタジー衣装に身を包んだ人物達が描かれていた。
「それ、俺も持ってんだけど」
颯真はノートの下から下敷きを引き出し、悠河に見せると互いに破顔した。
「好きなんだよね、このゲーム」
「俺も俺も。てか、悠河ってゲームやんなそうなのに」
「えー? 普通にやるよ。寧ろ、僕得意だよ。今度パーティ組んでみる?」
「俺だって得意だ。よっしゃ、そうしよう。そんで、どっちが多くのモンスター倒せるか勝負しようぜ」
「望むところ」
同じゲームの話題で盛り上がり、ゲーム内でも仲良くなって、特別な信頼関係が築かれるのもそう時間はかからなかった。二人はもう互いを「親友」と呼び合える絆を手に入れた。
中学卒業後、偶然にも高校が一緒だった。悠河ならもっと偏差値の高い高校へ行くだろうと颯真は思っていた為に心底驚いた。
悠河がこの高校を志望した理由は「家から近いから」
なるほど、悠河らしい理由だと颯真は納得した。
自分達はどこまでも仲が良く、最早腐れ縁と呼ぶに等しかった。
クラスも一緒で、まだ教室に残っている親友を颯真は呼びに行く途中だった。
窓から射し込む斜陽の目映い光に照らされて、廊下は真っ赤な焔の様に燃えていた。やけに色濃く、そこに足を踏み込んだ颯真も同色に染め上げられていた。
不思議で不気味で、地獄へ通じる洞窟を進んでいるかの様。
何故か、颯真の他には誰も居ない。
目の前に真っ赤な扉が見えて来た――と思うと、次の瞬間には教室内に居た。驚く暇もないうちに、颯真は親友の背中を見つけた。
悠河は窓の方を向き、太陽が地平線へ消えゆくのをじっと見届けていた。
つい先程、太陽は反対の方角にあった筈。確認をしようと颯真が後ろへ向こうとすると、悠河の囁く様な、注意していなければ聞き逃してしまう様な微かな声が颯真を呼び止めた。
「ねえ、颯真。キミはどうしてさ、」
「悠河……」
それきり颯真は声が出なかった。身体も動かなかった。まるで、金縛りにでもあったかの様に。
悠河の姿は逆光になって黒々とした影となっているが、颯真を見つめる目だけが異様に強い光を放ち、斜陽の色を取り込んだ様に真っ赤に見えた。
「颯真」
もう一度名を呼ばれ、颯真はゾクッとした。もうすっかり聞き慣れた声なのに、親友の声なのに、全く別のものに思えて。悪魔か、魔物か、否――死者だ。
悠河は死んだ。そう、丁度彼自身が立っている場所から窓の外へ斜陽目指して身を投げて。彼の頭からは斜陽の光と混じり合った真っ赤な真っ赤な血がドクドクと流れて。
すると、眼前の死者の頭からも血がドクドクと流れ始めた。あまりに痛々しい姿なのに、当の本人は痛覚をすっかり忘れてしまったかの様に唇に歪な笑みを浮かべていた。
「ねえ、颯真。キミはどうしてさ、キミはどうして」
いつの間にか、悠河の顔が間近にあった。
「どうして僕を見捨てたの?」
***
バチッと目が覚めた。つい先程まで間近にあった死者の顔はなく、ぼんやりとした視線の先には見慣れた天井があるばかりで仄明るい世界だった。
颯真は前頭部を押さえて上体を起こした。
「今のは夢……だったのか」
確かマカに悠河の事を訊かれて答えていた筈だったが、どうやらいつの間にか意識を手放していた様だった。
「それで、悠河くんを教室まで呼びに行った後どうしたの? 話が途中よ?」
マカが顔を覗き込んできて、颯真はドキッとして体ごと顔を後ろへ反らした。
「あー……えっと、その後は――」
――――どうして僕を見捨てたの?
脳内に直接声が響いて来て、颯真はバッと両耳を塞ぐと目を瞑って首を左右に振った。
「お、俺のせいじゃない!」
「……急に何?」
「だって、俺は……俺には」
「まだ寝ぼけているの? しっかりしなさい。これから学校でしょう?」
「ああ。行かなきゃ」
颯真は目を開いてそっと両耳から手を離すと、よろよろと立ち上がって身支度を始めた。
マカは横でじっとしている。
「あのさ、もう悠河の事は訊かないでくれ」
手際よくネクタイを結びながら言う。その際、マカの顔も机上の写真にも一瞥をやらなかった。
マカは写真の少年達を一瞥し、少し間を置いた後に静かに頷いた。
家を出てから颯真が通学路を進んでいる間、ずっとマカは周囲に意識を向けていた。擦れ違う会社員、主婦、学生、子供、猫……時々颯真に視線を向ける者はあれど、あのジメッとした嫌らしい感じは一切しない。偶々視線を向けた先に颯真が居ただけと言う具合だ。
何事もないまま、目の前に校門が見えて来た。
さわさわと、塀に沿って並ぶ風樹が心地よい音を立てる。
このまま終始平和でいてほしいと願いたいところだが、実はここからが一番気を引き締めなければならない。校門を潜ったら本番なのだ。
颯真は他の生徒達に混じり、校門を潜って昇降口を目指した。大した道程ではないが、守護霊代理は一層意識を研ぎ澄まさせ、主へ向けられる異質な視線を探る。
マカの真剣な様子に、颯真もそわそわし始めて辺りを見回した。
端から見れば、颯真の方が不審者で時々彼を一瞥して通り過ぎていく生徒達。でも、そこには生霊の主は紛れていなかった。
こうして無差別に不信の目を向けると、何もかもが疑わしく思えてくる。疑わしきは罰せよとは言うけれど、全てを敵に回せる程颯真は強くはない。マカならともかく、彼も所詮は人の子、何の力も持たないのだ。
ただ、例外として人間だからこそ持つ特別な力がある。それは今現在、颯真を悩ませている形のないモノ、即ち感情。感情は時として相手に猛威を振るう。
そればかりに気を取られていて、颯真は自分が不審者となっている事に気が付く事が出来なかった。
「おはよ。颯真、おま……挙動不審すぎるだろ」
側に来た友人によって、漸く気付かされた。
颯真は下駄箱の蓋に手を掛けたまま固まり、せっせと上履きに履き替えている昭國を見た。
「あ……そんなに変だったか?」
「ああ。辺りチラチラ見て、時々そこに誰か居るみたいに視線を向けて」
「ちょっと、な。ほ、ほら! デスレターとか教科書とか、色々嫌がらせ受けたしさ」
何気なく口にしてみて、颯真ははたと気付いた。
嫌がらせの犯人と生霊はイコールなのではないかと。
更に蓋を開いて瞠目した。
「黒い……百合?」
上履きの上に摘み立ての黒百合が一輪添えてあった。
友人と守護霊代理が覗き込み、マカが低く呟いた。
「花言葉は恋、そして呪い」
それと相俟って、見た目からも決して縁起が良いとは言えなかった。
マカの声が聞こえない昭國は花に詳しくもないので当然それが意味する事は分からないのだが、眉間に皺を寄せて「うわ……」と後退った。
颯真は黒百合を鷲掴みにすると、足下に叩き付けて踏み付けた。
「態々こんな事しやがって! 面と向かってじゃ何も出来ない臆病者のくせに! ほんっと迷惑なんだよ」
騒ぎを聞きつけ、何だ何だと野次馬が続々と集まり出した。
昭國は完全包囲される前に颯真を置き去りにして逃げていき、颯真も行く手を塞ごうとする輩を怒れる視線だけで怯えさせて自然と出来た隙間を通り抜けて後を追った。