逃亡劇、開始
「さぁ。この握りしめた拳を開くとー?」
ぽんっ。中から一輪の、小さな花が現れた。
「わ! すごいすごーい!」
「オジサンすごーい! マジシャンみたい!」
「お、オジサンは、やめてくれ……」
マルスは、腰を落ち着けながら即興の手品に花を咲かせた。マルスの隣に座り見つめるマルファ、二人に向かい合って喜ぶイズ、ソクァがいる。
「あなた、結構器用なのね」
「意外かい? こう見えても僕は手先が器用だからね!」
咲いた白い花をイズに手渡しながら、マルスがマルファの呟きに答えた。
「いやー。しかし今日はいい天気だなぁー!」
長い腕を天に掲げて伸びをするマルスに、ソクァ達がきらきらした顔を近づけてせがみ始めた。
「おにいちゃんおにいちゃん! もっとやって!」
「私も見たいみたーい!」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。もう……」
兄弟それぞれに肩を持たれて揺さぶられる様子に、マルファは何気なく、呟いた。
「私も、みたいかな」
三人の視線が一点に向いた。一瞬の静寂の後、イズとソクァが流れに乗る。
「そうだよね! ほらぁ!」
「マルファも言ってるんだからー! やってよ!」
「う、うーん。そうだな……」
困り顔。細い顎に手を添えて、優しげに笑うマルスは、歩いてきた方向を眺めた後、手を鳴らした。
「よし! じゃあ、もう一つ見せよう!」
「わーい! やったやったぁー!」
ソクァの喜ぶ様子に頷いた後で、マルスは付け加えた。
「でもこれは危ないから、離れてくれるかい?」
「うん! ソクァ! お母さんのところまでいこっ!」
「はぁーい!」
中央、噴水広場まで駆けていく二人。隣で成り行きを見守っているマルファは、聞いた。
「わたしはいいの?」
「え? うん。君はいいよ。っていうか、ここにいてもらわないと困るっていうか」
「どうして? あ、協力して欲しいの?」
「というか、どっちかと言えば僕が協力するかもしれないというか……」
マルファが眉を潜めて首を傾げると、彼女の座る反対側から、マルスに声がかけられた。
「こんにちは」
低い、女性の声。全身を真っ黒なスーツに身を包んだ女性は、後ろに手を組んだ状態で話しかけてきた。
「は、これはどうもこんにちは。いやぁー今日もいいお天気ですねぇ!」
マルスが喋り出す。マルファは彼の肩越しに彼女の顔を見た後で、慌てて俯いた。シルクハットが、彼女の顔を完全に隠す。
「確かにいいお天気だ。思わず散歩に出てしまいたくなるような」
「そうですよねぇー。 僕なんて時間が押してるのに腰まで落ちつけちゃって」
「それならもう行かれてはどうですか?」
「や、やだなぁそんな冷たい! 僕にだってホッと息する時間くらい欲しいですよ!」
「やることをやってからにしては?」
「あ、あはは! こりゃ手厳しい」
淡々とした口調の中に、棘が垣間見える。縮こまるように座り続けるマルファの拳が震えた。
「あ、あなたはどうですか? 失礼ですが、それほどお時間があるようには……」
「ええ。用事の途中です。それもすぐ終わりそうですが」
「そうですか! よかったよかった! じゃあ僕達はもう少しここでお話してるんで」
「そうはいかない」
一段と、圧のかかる声が上から響いた。
「あなたにはすぐ立ち去ってもらいたい。怪我をしたくないのなら」
マルファの瞳が、ぎゅっと瞑った。
その瞬間、マルファは、身体を傾けた。いや厳密には、マルスの回した手が、彼女の肩を引き寄せた。
「えっ……?」
「合わせて」
一瞬のやり取り。今来た来訪者に聞こえないよう小声で囁くと、マルスは続けた。
「こ、この子を奪おうというのかい!? 僕のガールフレンドなんだ、邪魔をしないでくれないか!?」
「ガールフレンド?」
「そぉー! せっかく時間を作って愛しいマイハニーとスイートな時間を過ごしているのに、失礼じゃないか君ぃ!」
彼の腕の中へ頭を預けるマルファは動かない。そのかわり眉は細かく振動している。
「ガールフレンドというのは、つまり。恋人?」
「それ以外に何があるんだい!」
「本当に恋人? あなたの妄想ではなく?」
「おいおい。妄想なら彼女はどうして僕の胸に顔を預けているんだい?」
言いたい放題。何かを勘違いしたような声は、図らずも女性達を全員ピクつかせた。
「なるほど」
「わかってくれた!?」
「だいたいわかった。あなたは思い込みが激しく、空気が読めないようだ。私が迷惑していることを全く、微塵も察してくれないらしい」
「ちょ、ちょっとぉーーー!?」
「わひゃあ!」
不意に訪れた浮遊感に、マルファの悲鳴が落ちる。マルスに抱えられたまま一回転した彼女は、座っていた場所から少し離れた場所に着地した。
ようやくマルファも、帽子の鍔から目の前を覗き込む。
そこには、剣呑な光を反射する、細長い刃を構えた女性の姿があった。
「いきなり危ないじゃないか! この子が怪我したらどうするんだ!!」
「そんな下手は打たない」
顎の輪郭を隠す程に切りそろえた短い髪。赤みを含んだ黒髪が、吹いた一陣の風に揺れる。
腰を落とし、重心を低めた足元には、仕立てのいい革靴が輝く。フォーマルな制服に包まれた華奢な身体は、無駄を一切排除したストイックさを漲らせる。
「マルス、これ以上は……」
だめ。そう言おうとした口は、彼の言葉に遮られた。
「逃げよう!」
「えっ」
「掴まって!」
「ふぁっ!?」
足が、有無を言わさず地面を蹴る。
視界が、見たこともない高さから街を見下ろす。
先程からお姫様だっこをされていたことにすら気が回らないマルファは、
「う゛っ!? くび! 首絞め過ぎっ!!」
「だ、だってこんないきなり! こ、こわいーーー!!!」
マルスの首に必死でしがみ付くしかなかった。